「流れのほとり」③ (By a Stream of Water)
猛暑襲来。暑さがタイ並みです。
タイ(台)風が来ると収まるでしょうか?熱中症にならないように適度な水分補給が必要です。
「水」の大切さを痛感します。水は、英語ではWater(ウオーター)、私の愛するタイ語ではナーム。今はタイ料理が日本でも普及していて、ナムプラー(タイの魚から作った醤油のような調味料、魚醤のこと)を知っている人が多いです。ナムプラーは正しくは「ナームプラー」。その「ナーム」は水ということで、「プラー」は魚ということです。
タイ語は、日本語や英語とは違って音調言語です。5つの違った音調があります。この音調によって意味が変わります。日本語調で「ナムプラー」と棒読みしますと、魚を導く、と言う意味になります。タイ語に近い音調で発音するには「なぁ~んだ」と言うように「なぁ~ん」まで発音してそれにプラーとくっつけることです。今度タイ料理店に行った時に試してみてください。
さて、聖書には「水」の話題が良く出て来ます。「水」は私たちにいのちを与えるもの、いのちの象徴として出て来ます。ユダヤ人の三大祭りがあります。そのうちの一つ、仮庵(かりいお)の祭のフィナーレ、最後の日に、イエスはエルサレムで祭に集まって来ていた大勢の人々に大声で言われました。
「渇いているなら」とは、魂の渇きのことです。魂の渇きを覚える人は、わたし=イエスのもとに来て飲みなさい、と言われたのです。つまりイエスは魂の渇きをいやす水を与えるお方です。イエスの与える水を飲むということは、「イエスを信じる」、ということです。旧約聖書が預言しているように、救い主(メシヤ)は私たちの魂の渇きをいやす水を与えてくださる方です。イエスを聖書が預言したメシヤだ、と信じる人は、その人の心の奥底から生ける水が流れ出るような人になる、と言われたのです。この心の奥底から流れ出る「生ける水」とは、神様の霊によって流れ出る「いのちの水」のことです。
皆さんは勢いよく湧きあがる泉を見たことがありますか?富士山の麓や北海道の羊蹄山の麓にはこのような湧き泉が沢山あります。冷たく、きれいな水が止まることなく、盛り上がるように次々に湧き上っています。涸れることはありません。
クリスチャンになるとは、この湧き上がる止まることのない泉に例えられます。
・心の底に神様によって新しいいのちが与えられます。
・そのいのちからいのちの水が泉のように湧き上ってきます。
・その水は清く、いのちに溢れ、止まることなく流れ出ます。流水ですから腐ることがありません。
・その水を飲む者は心の渇きを癒され、魂の渇きがなく、力がみなぎっています。
日本ではキリスト教と言うと、キリスト教文化、音楽、文学、絵画など、高い教養人を思い浮かべ、自分は関係ない、と思ってしまいます。それらは一部の優れたクリスチャンたちの活動によってもたらされたことです。
しかし、最も基本的なことは、神様によって生ける水が心の奥底から流れている人になる、それが本物のクリスチャンだ、ということです。
水分不足によって熱中症にならないように水を飲みましょう。心が渇いて「心の熱中症」にならないように「わたしのもとに来て飲みなさい。」と招いてくださるイエス様のもとに来て、尽きることのない「上からの水・いのちの水」を飲んでください。あなたの人生がいのちの水の流れ出るきよい川のようになるでしょう。