流れのほとり NO.25
<記憶でなく記録だ>
クラス会に出た時の話です。久しぶりに会って、各自の近況に耳を傾けていると、一人の友が別の友人に、「キミはこの前はカラオケでこれとこれとこれの3曲を歌った。」と言ったのです。そう言われた友人は「え~、そうかなぁ~、お前よく覚えているな。」と記憶の紐を手繰っていました。すると友人が「記憶は頼りにならん、記録が大切だ。」と言って古い手帳を取り出し、「○月○日、XX君とカラオケで歌う。XX君は1曲目は何々、2曲目は何、3曲目は何を歌った。とここにちゃんと書いてあるぞ!」と。「記憶ではなく、記録だ。」と言ったのです。
<物忘れの数々>
私はこの会話を聞き、非常に感心し、興味を覚えました。70歳を過ぎて、今使っていたはさみをどこに置いたか分からなくなったり、メガネをどこに置いたか分からずに大騒ぎをする身になったからだけではなく、昔のことを夫婦間で話している時にしばしば記憶が一致しないことがあるのです。また、もっと困ることは、自分が覚えていないことを「昔、牧野君にこうしてもらった。」と感謝されるのですが、私はそんなことをしたことを覚えていないのです。「へぇ~、そうだったかな~」と生返事をします。褒められたり、感謝される時は良いですが、私が相手に迷惑をかけたことの場合は困ります。覚えていないですが、ただひたすら「すまなかったなあ~」と謝るだけです。また、「キミとあそこに一緒に行った時、こんなことがあったよな。」と言われても、私は一緒に行ったことも、その場所のことも思い出せないのです。そこで適当に話を合わせているだけの会話になります。逆の場合もあります。私は覚えているのに、相手は覚えていないで、「え~、そんなことあったっけ。」と答えるのです。それが私にとって迷惑だったことになると、口には出しませんが、「こいつ、あれだけ迷惑かけたのに、忘れてしまったのか。」と少し腹立たしくなります。
記憶力が年々衰えて行っているという現実もありますが、このクラス会で「記憶ではなく、記録だ。」という名言に接し、これを心にしっかりと止めています。そこで最近は、どんなに短くても一日にあったことを日記に記すことにしました。書くことが思いつかなかったら、その日の天気のこと、どこに行ったか、だれと会ったか、などを記録しています。これだけでも思い違いを正すのに役立っています。
<神の約束のことば、聖書>
キリスト教の特徴の一つは、神様のことばが聖書という形で記録されていることです。何千年も前に書かれたことば、記録されたことばが重要なのです。神様のことばは石に刻まれたり、羊皮紙やパピルスという紙の原型の上に書かれ、一字一句間違わないように保存し、受け継がれてきました。
何千年も前、神様はアブラハムを呼んで、彼と約束をしました。「わたしが示す地に行きなさい。そうすればわたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:1~3)
アブラハムはこの神様の約束のことばを信じて行動し、生きました。そして神様に祝福されたのです。「アブラハムは神を信じた。それでそれが神の義と認められた。」(ローマ4:3)アブラハムに、また、私たちに約束された神様の約束のことばは、「イエス・キリストが私たちの罪を身代わりになって背負い、十字架で死に、私たちの罪の代価を支払って下さった、ということを信じることによって神様は私たちの罪を赦して下さる」と言う約束です。
アブラハムは日本の縄文時代より前にこの約束を受け、記録しました。何千年経っても神様の約束は変わらないし、確かなものです。学校でキリスト教について習った記憶よりも、聖書に記録された神の約束のことばを読んでみてください。