信仰によって生きる人々
ガラテヤ人への手紙3章6~14聖書本文はこちら
クリスマス=神様のアブラムへの七つの祝福の約束の成就をお祝いする日です。その約束は長い歴史を通って来て、遂にイエス・キリストで成就しました。
ガラテヤ3:16でパウロは、この約束はアブラハムの子孫たちと複数形で言われているのではなく「一人を指して『あなたの子孫に』と言われていて、アブラハムの一人の子孫、イエス・キリストによって神様の祝福の約束は成就することを示し、説明しています。このイエス・キリストによる七つの完全な祝福は、イエス・キリストを信じる人なら、世界中のだれであっても神様の祝福、罪からの救いを受けられるということです。
1.あなたがたはそんなにも愚かなのですか?
ところがガラテヤ地方、現在のトルコ共和国にあった教会のクリスチャンたちの中のある人々がイエス・キリストの十字架とよみがえりによってのみ罪から救われるという「アブラハムの祝福」からそれていってしまったのです。彼らは、救われるためには信仰だけではなくて、旧約聖書にある十戒を初めとする律法に従い、律法を行わなければ救われない、と主張したのです。これを伝え聞いたパウロは激しい危機感をもって3章1節にありますように「ああ、愚かなガラテヤ人」と激しいことばで手紙を書きました。3節にも「あなたがたはそんなにも愚かなのですか」と繰り返しています。何でパウロはこんなに強くいうのかと言うと、聖書の教えから離れて行くことは生死を決める重大事、天国に行くか、地獄に行くかを決定することであるからです。
2.聖書の真理をゆがめる危険
歴史を通じて教会はいつもこの問題に直面し、戦って来ました。聖書の教えを人間の考えや今流行っている考えに合わせたり、民族主義的な考えから聖書の教えを曲げたりする人々が出てくるのです。最近でも日本人の先祖はユダヤ人で、日本の神社はユダヤ人の幕屋と同じだ、と言い、日本人が特別で優れている、というようなことを言う「クリスチャン」がいます。
また、聖書の権威を薄めて弱める人々、聖書は事実ではなくてユダヤ人のお話しだよ、と言ったり、奇蹟なんて起こらなかったのだ、そのまま信じなくていいよ、キリスト教精神を受け止めればいいのだから、と教えたりする「クリスチャン」たちが出てきています。クリスチャンと言っているのに、お守りを付けたり、迷信に縛られたり、たたりを信じ、恐れたり、占い師に自分の将来に起こることを尋ねたりする人がいます。また、他の宗教と同じようにご利益主義、イエス様にお祈りすれば自分に得になるようなこと、ご利益がある、と言ってお金や財産を求めたりすることに陥っている人がいるのです。
3.アブラハムの信仰とは
アブラハムの信仰はどうだったのでしょうか?
6節にありますように「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」のです。どういうことか、と言いますと、アブラハムが神様に義とされる、神様の前に罪赦された正しい人と認められたのは、アブラハムの行い、善行や宗教的な努力によるのではないのです、ということです。つまり、アブラハムが努力して清い生活したからでも、毎日神様にささげ物をしたからでも、宗教的な儀式をきちんと行ったからでもないのです。ただイエス・キリストを信じる信仰によるのです。
どういう信仰かと言いますと、私たちがイエス・キリストは私の罪のために十字架上で死んで下さったことを信じる信仰です。私たちの罪とは何でしょうか?私たちが神様を認めないで、自分を中心として生きているという神様に対する罪です。その罪を悔い改め、イエス・キリストが十字架で私たちの罪の身代わりになってくださり、罪を赦してくださったことを信じる信仰です。また、イエス・キリストは、死に打ち勝って三日目によみがえられ、私たちに永遠のいのちを与え、聖霊を宿らせ、私たちの中に今も生きて働いておられることを信じ受け入れる信仰です。このように信じる信仰を持つと、
イエス・キリストが自分の生活の中心に主(あるじ)として入って来てくださいます。その時に、神様の霊、聖霊が私たちの中に宿ります。これが新しく生まれるということです。新しいいのち、永遠のいのちが信じる私たちに与えられるのです。
ですからアブラハムが神様を信じて、信仰によって生きたように、信仰に生きる人はアブラハムの子なのです。(7)
異邦人にも及ぶ祝福
実は神様が初めにこの約束をアブラ(ハ)ムにした時この「信仰によって義と認められる」(6)という神様の祝福の約束は、ユダヤ人だけではなく、ユダヤ人以外の人々、つまり異邦人たちも信仰によって生きるならば神様の前に義と認められるということを意味していたのです。ですから、初めに何千年も前にアブラムに約束をされた時に「すべての異邦人はあなたによって祝福される」(8)という第七の祝福の約束をされたのです。
8節から分かることは、「義と認められる」ということは「祝福される」ということと同じ意味だ、ということです。更に、もう一つ8節から分かることは、「福音」とはアブラハムと同じように主イエス・キリストを罪からの救い主、メシアと信じる信仰を持っている人は、その人がユダヤ人であろうと、ユダヤ人以外のアジア人でもアフリカ人でも、西洋人でも南アメリカ人でも、ただ信仰によってのみ救われる、という良き知らせであることです。
なぜ私たちはクリスマスのことやイエス・キリストの福音を他の人々に宣べ伝えるのでしょうか?
それは「すべての異邦人」、全世界のあらゆる人種、民族の人々は、このイエス・キリストの十字架を信じる信仰によってのみ救われるからです。たまたま日本にはこのイエス様の救いの素晴らしいニュース、福音が西洋人によって伝えられたので、多くの日本人はキリストを信じるということは西洋的なことだと誤解しています。9節にありますように、アブラハムに約束された祝福を受けることができる人は、日本人であろうとアフリカ人であろうと、西洋人であろうと、だれでもイエス・キリストを信じる人です。信仰によって生きる人です。
4.律法遵守の重大な誤り
ところが、先程言いましたように、ガラテヤ地方の教会に偽教師が入って来て多くの信者を惑わし、信仰からそらせました。どういうことかと言いますと、彼らはクリスチャンになるには福音を信じるだけではだめで、色々な宗教的な「行い」が必要だ、と言い、それをするように強制したのです。彼らが要求する戒律は沢山ありました。それを行わなければ救われない、と言うのです。日本の宗教の多くはこのようなものです。あらゆる修行があります。豪華な仏壇や神棚を買うように勧められます。法事にはお坊さんに多額のお金を包んで渡さなければなりません。また、折々にお金を寄付するように言われます。厳しい修行としての生活が要求されたりします。ところがどの宗教でも教える戒律を厳格に守ろうとしても人々はそれを完全に守ることのできません。そのために人々の心の中には罪責感が残り、悔いが残り、もっと修行に励む人もいますし、自分はダメだ、と言うあきらめる人もいます。そのことが11節に書かれている「律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。」の意味することです。ユダヤ人たちは旧約聖書に書かれている律法を厳格に守るために努力し、守るために細則を作り、それを行おうとしましたが、だれもその細則を守ることはできませんでした。私たち罪人が頑張って様々な法律を守って、神様の前に清くあろうとしても、それができず、失敗してしまうのです。完全に行って、神様の前に義と認められる人は一人もいないのです。
5.神の前に義とされるために
それでは神様の前に義とされるにはどうしたらよいのでしょうか?
13節を見てください。「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者とな」って下さったのです。つまり、イエス・キリストはご自分には何一つ罪のないお方、神様でしたが、私たちが罪の故に神様から受けなければならない「のろい」を、すべての「のろい」を身代わりになって受けてくださったのです。13節に「私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。」と書かれています。これはどういう意味かと言いますと、私たちが律法、法律を守れないで罪を犯すと、私たちはその犯罪のために罰を受けます。この神様から来る罰が「のろい」のことです。「贖い出す」というのは、買い取る、ということです。つまり私たちが神様の法律に従わないで、神様に背いて犯した罪の罰、「のろい」をイエス様が私たちの代わりに買い取って下さる、ということです。例えば、私が神様に逆らい罪を犯したので、一千万円の罰金を払うように言われたとします。すると、イエス様が「わたしが牧野の代わりにその一千万円を払ってあげる」と言われるのです。それが贖い出す、ということです。イエス様はその贖いの働きをすべての人のためになされたのです。なんと素晴らしいことでしょうか!
それではその贖い出す行為はどのように行われたのでしょうか?
それはイエス様が「木にかけられる」と言うことによって行われたのでした。「木にかけられる」とは、十字架に付けられるということです。普通ユダヤ人は死刑にする時は先日話しましたステパノのように石を投げつけて殺す方法を使います。しかし、ユダヤ人たちは自分の手を汚すことを嫌い、異邦人であるピラトと言う人にイエス様の裁判を行わせました。ですからピラトはローマ人の死刑方法、十字架刑を使ったのです。イエス・キリストはこのように十字架刑になることによって、私たちすべての人の「のろい」を買い取ってくださったのです。こうして「アブラハムの祝福」がクリスマスに誕生したイエス・キリストによってユダヤ人だけではなく、異邦人にも、全世界のすべての人に及んだのです。(14)
このイエス・キリストを信じる信仰によって私たちは罪赦され、新しく生まれて、神様が約束されていた通りに神様の御霊を宿す者とされたのです。こうして私たちは今年の聖句にあるように、「主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け」ていきましょう。毎日の生活の中で主なる神様を覚え、恐れ心を持って過ごし、私たちの中におられる聖霊の励ましを実感して活き活きとしてクリスチャンとして霊的に日々前進、成長していこうではないでしょうか。お祈りしましょう。
ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、
聖書は、
ですから、信仰によって生きる人々が、
律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「
律法によって神の前に義と認められる者が、
律法は、「信仰による」のではありません。「
キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、
それは、アブラハムへの祝福がキリスト・
兄弟たちよ、人間の例で説明しましょう。人間の契約でも、
約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、「
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会