日本福音キリスト教会連合

ただ一人の救い主

 
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2022年4月から「上水めぐみキリスト教会」の牧師。 サイクリングやジョギングが趣味。

使徒の働き4章1~12節

ペテロとヨハネが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、サドカイ人たちが二人のところにやって来た。彼らは、二人が民を教え、イエスを例にあげて死者の中からの復活を宣べ伝えていることに苛立ち、二人に手をかけて捕らえた。そして、翌日まで留置することにした。すでに夕方だったからである。
しかし、話を聞いた人々のうち大勢が信じ、男の数が五千人ほどになった。
 翌日、民の指導者たち、長老たち、律法学者たちは、エルサレムに集まった。
大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレクサンドロと、大祭司の一族もみな出席した。
彼らは二人を真ん中に立たせて、「おまえたちは何の権威によって、また、だれの名によってあのようなことをしたのか」と尋問した。
そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。私たちが今日取り調べを受けているのが、一人の病人に対する良いわざと、その人が何によって癒やされたのかということのためなら、皆さんも、またイスラエルのすべての民も、知っていただきたい。この人が治ってあなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです。
『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石、それが要の石となった』というのは、この方のことです。
この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」
聖書 新改訳2017

私たちが、主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続けて生きて行くと、必ず直面することは、私たちの信仰に対する「反対」です。ある時は強い反対、迫害と言われるような反対に会うことがあります。また、ある時は、それほど強くはありませんが、小さないやがらせ、仲間外れにされる、村八分のような反対です。パウロは、「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」(第2テモテ3:12)と言っているとおりです。

ペテロとヨハネがエルサレムの神殿に礼拝に行き、美しの門で物乞いをしていた人の足をナザレ人イエスの名によって癒した時、人々はその奇蹟に驚き、三人の許にやってきました。その人々にペテロは福音を語りました。すなわち、人間の罪と神様の救いの計画について語り、長い間預言者たちを通して預言された救い主、メシアは、このナザレ人イエスである、と教えました。すると福音を聞いた多くの人々、男の人だけ数えても5千人位の人(4)とありますから、女の人や未成年を加えたら、1万人位の人がイエス・キリストを罪からの救い主と信じ、受け入れました。素晴らしい聖霊なる神さまの働きです。

ところがこのような素晴らしい神様の働きがあると、サタンは妨害して来るのです。これは使徒たちだけの経験ではなく、現在でも同じです。一つの教会が祝され、クリスチャンたちが聖霊に励まされて信者の数が増えて行くと、サタンからの妨害が入りこんで来ます。
些細なことから教会員の間で意見の衝突が起こったり、感情的な対立が起こったり、お金に関する罪や男女関係に関する罪が教会に入りこんで来て、折角霊的に盛り上がっていた教会の中に分裂が起こったり、憎しみ合いが起こったりして教会の成長が止まってしまいます。
ですから私たちはいつも霊的に目を覚ましていなければなりません。いつも聖書の教えに立ち返り、私たちの言動を点検していかなければなりません。聖書の教えに反するこの世の風習、習慣、考え方、行動を退けて行かなければなりません。
例えば、神様は私たち人間を創造された時、一人の男と一人の女を創造されました。聖書は男女平等を教えています。例え日本社会ではそうであっても、教会の中に女性蔑視や軽視の考えや行動を持ち込んではいけません。
また、日本の風習には、仏教や民俗神道に由来した風習や祭が沢山あります。クリスチャンになるまではそんなことを意識しないで皆と同じようにその風習に従ってきたかもしれません。しかし、私たちがクリスチャンになったら、唯一の神を信じ、聖書の教えに従って生きるのです。小学校の遠足で皆でお地蔵さんを拝んだりすることがあります。私たちはそれは偶像礼拝だからしない、と子どもたちに教えなければなりません。仏式の葬儀に参列した時には、私たちは偶像礼拝をしないことを予め葬儀主催者(喪主)に伝えて、偶像礼拝を避けるのです。

このように聖書の教えに従った行動を取ると、まことの神様を知らない人々から非難されたり、反対されたりすることがあります。

ペテロも同じような「反対」に直面しました。ペテロとヨハネが人々にイエス・キリストの福音を語っていると、「祭司たち、宮の守衛長、サドカイ人たちが二人のところにやって来」ました。そして「二人に手をかけて捕らえた」(3)のです。皆が熱心に聞いているのに、何でこの人たちは、ペテロとヨハネを逮捕したのでしょうか?

それは「二人が民を教え、イエスを例にあげて死者の中からの復活を宣べ伝えていることに苛立った」(2)からです。

なんで彼らは二人が教えている事に苛立ったのでしょうか?

サドカイ人とはどんな人たちでしょうか?

「あなた、どこ出身?」と尋ねたら、「新潟県です。」と言うので「新潟県のどこ?」と尋ねたら、「佐渡です。」と答えたので、「ああ、佐渡かい。」という、サドカイ人のことではありません。

サドカイ人は、ユダヤ人でも上流階級、支配階級に属している金持ちたちで、知識のある人たちでした。彼らはメシアはもうすでにやってきたと考えている人たちで、その上、人間が死んだ後によみがえることはない、とよみがえりを否定している人たちでした。ちょっとクリスチャンだと言っている人で、科学的に証明できない奇蹟を信じない人たちに似ています。

ですから、ペテロがはっきりとイエス・キリストは十字架で死んで三日目によみがえられた、と人々に教えていたので、イライラしていたのです。そこで祭司たちや宮の守衛長を引き連れて来て、ペテロとヨハネを逮捕したのです。ところがその時は時間が遅く、夕方になっていたので彼らを留置場に入れて、次の日に尋問するように考えたのです。

翌日、サドカイ人たちは「民の指導者たち、長老たち、律法学者たち」(5)集めて、二人を彼らの真ん中に立たせて尋問を始めました。ペテロやヨハネはイスラエルの北部の片田舎、ガリラヤ湖で働いていた漁師でした。13節に書いてありますように、「二人は無学な普通の人」と言われていますから、今迄勉強したことがない人たちだったと思われます。そんな教育のない、地方から出て来た漁師二人に対して、その当時の最高の教育を受けているサドカイ人や律法学者たちや、大祭司の一族皆が揃って二人を囲んで立っているのです。

しかし、聖霊に励まされている二人は動じませんでした。

8節に書かれているように、その時にペテロは聖霊に満たされた、とあります。これは聖霊なる神様が特別にペテロに臨み、ペテロに主イエス・キリストの事を証しする知恵と力を与えられたと言うことです。ペテロもそうですが、私たちが無学の者であっても、関係ありません。聖霊なる神様は私たちに話すべき言葉を与えてくださいます。また、その事を話す力を与えてくださいます。ですから、ペテロはこのえら~い人々に「おまえたちは何の権威によって、また、だれの名によってあのようなことをしたのか」と尋ねられた時に、堂々と、明解に答えることができたのです。

私たちも同じです。自分の知恵や力で自分の信仰の事、イエス・キリストの事を話そうとすると行き詰ってしまいます。特に自分より知識のある人とか頭がよいと思われる人たちや、ちょっと有名な人たちに「牧野さんはキリスト教を信じているの?」「あなたはよみがえりを本当に信じているの?」尋ねられると、その人の地位とか、教育とかにおびえて、はっきりと自分の信じていることが言えなかったりすることがあります。私たちはいつでも聖霊の助けと働きを祈り求めていくことです。

「主よ、私には知恵と知識がありません。うまくしゃべる言葉もありません。聖霊様、助けてください。私に知恵と力を与えてください。相手に分かるように話すことができるようにしてください。」と心の中でお祈りすることです。

「キリスト教なんて信じられない。間違っているよ。」等と言われて,か~っとなって自分の力で反論しようとするとうまく言えず真意が伝わりません。

彼らはペテロに「お前らは、何の権威で、だれの名によってあのような行動したのか?」に言いました。この質問を聞いた時、ペテロはきっとイエス様の事を思い出したことだと思います。ルカの福音書20:1~8にこうあります。「ある日、イエスが宮で人々を教え、福音を宣べ伝えておられると、祭司長たちと律法学者たちが長老たちと一緒にやってきて、イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしているのか、あなたにその権威を授けたのは誰なのか、教えてくれませんか。」イエスは彼らに答えられた。「わたしも一言尋ねましょう。それに答えなさい。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。」・・・彼らは「どこから来たのか知りません」と答えた。するとイエスは彼らに言われた。「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言いません。」

ペテロは、自分は主イエス・キリストからの権威によって、神様のみ業について語る、という確信を持って話しました。ペテロは今問題になっている事を明らかにします。

  • あなたがたが私たちを取り調べているのは、一人の病人が良くなった、と言う良いわざについてです。
  • また、その人が何によって癒されたのか、ということです。

私たちが人々から「反対」された時も同じです。何で私たちの信仰が反対されるのか、問題をはっきりさせることが大切です。サタンはしばしば私たちを感情的な対立に誘いこみ、何が問題なのか分からなくさせ、話しを混乱させます。その結果、憎しみ合ったり、全然関係のないことを持ちだして来て、反対をしたりします。

ペテロははっきりと言いました。この人に起こった「良いこと(わざ)」は、この人だけではなく、「皆さんも、またイスラエルのすべての民も知って頂きたい」ことなのです。つまりすべての人、全世界の人々が知っていなければならないこと、全ての人に関係のあることなのです。

それは、「イエス・キリストの名」、イエス・キリストの権威です。イエス・キリストの力によって「良いわざ」がなされたのです。

第2に、ペテロは、そのイエス・キリストとは、「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせた」方です、と教えました。

更に、その方は、あなたがたが信じている旧約聖書に預言されている方なのです。旧約聖書の詩篇118:22、23に「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石になった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。」と言うことばがありますが、「家を建てる者たち」とは、あなたがたのことです。あなたがたは、イエス・キリストのことをこんな石は使えない、と捨てましたが、その捨てられた方が「要の石」になったのです。あなたがたの人生と言う家はこの「要の石」イエス・キリストの礎の上に建てられなければ建ち上がらないのです。

第3に、ペテロは、私たちを罪から救ってくださる救い主は全世界にたった一人しかいないのです、と語りました。12節を見てください。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救わるべき名は人間にあたえられていないからです。」イエス・キリスト以外には私たちを救ってくださるお方は誰もいません。「天の下」、世界各国にはいろいろな宗教があって、様々な救い主がいると教えています。しかし、ペテロは、それは違う、と言い、主イエス・キリスト以外にはだれも私たちの罪を救うことのできる方はいないのだ、と言います。

これが聖書の教えです。このために、2000年以上の歴史の中でクリスチャンたちは反対され、迫害されました。日本でもよく「キリスト教は心が狭い」と言われて嫌われ、反対され、迫害されます。

しかし、私たちはペテロと共に「主イエス・キリスト以外には誰によっても救いはありません。」と信仰告白していきます。また、ペテロのように、この物乞いをしていた人の足が癒されたことが大切なのではなく、主イエス・キリストの名による救いの御業が大切なのだ、と言っているように、主の御名を宣べ伝えていきましょう。

お祈りしましょう。

 

 

 

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