よみがえりのいのち
イースターおめでとうございます。
主イエスは、十字架上で殺されてから三日目、週の初めの日、日曜日によみがえられました。今も生きておられるお方です。よみがえられ、生きて私たちの間で働いておられる主イエスに感謝し、御名を賛美します。
主のよみがえりは、私たちの生活とどんな関わりがあるのでしょうか?
1. 私たちを恐れから解放してくださいます。
弟子たちは主イエスがよみがえられたと聞いて、ユダヤ人たちを恐れていました。ユダヤ人たちが主イエスを信じている弟子たちを捕まえに来ると思って恐れていました。ですから「戸に鍵をかけ」て一つの部屋に集まっていました。するとそこによみがえられたイエス様が来て彼らの真ん中に立ったのです。そして言われました。「平安があなたがたにあるように」と。
2.よみがえりは私たちに平安をあたえてくれます。
恐れは無くなり、平安、安心、それも主が与えてくださる平安安心です。昔も今も、多くの人々が恐れと不安の中に生きています。若い人は将来の事を心配し、恐れ、不安に思っています。中年の人は自分の仕事や人間関係に不安を持っている人が多いようです。高齢になって来ると、自分の老後の事、健康の事などが不安になります。
しかし、よみがえられたイエス様が最初に弟子たち言われたことばは、「平安があるように」でした。これがクリスチャン生活の特徴です。クリスチャン生活は平安がある生活です。
イエス様が言われている「平安」とはどういうことでしょうか?
それは第1に、私たちとイエス様の間に平和があることです。私たちがイエス様と平安な関係になることです。イエス様との関係が正しい関係になっていることです。つまり、私たちがイエス様を自分の神様、救い主と信じ受け入れて罪が赦されている状態にいるということです。これがクリスチャンになる、ということです。
第2に、イエス様の下さる平安は、この世の平安とは違う、この世の状況や環境に左右されない変わることのない平安です。この世の安心は変化します。20年前は安心であったことが今は安心ではない、と言うことがあります。10年前までは福島県の人々は原子力発電所は安全で安心だ、と信じて来ました。そして原子力発電所から来る補助や援助で経済的にも繁栄し、喜んでいました。しかし、東日本大震災による津波によって発電所が壊れ、放射能が漏れ、人々は安心、安全を失ってしまいました。私たちがイエス様を救い主と信じて、神様との正しい関係になった時に、神様は私たちに神様の平安、安心をあたえてくださいました。それは例え私たちが逆境の中にいても、迫害の中にいても、私たちを恐れから解放し、変わることのない平安を与えてくださいます。
3.よみがえりは私たちに喜びを与えてくださいます。
弟子たちが集まっていた部屋に入って来られたよみがえられたイエス様は弟子たちの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた後に何をしたでしょうか?「イエスは手と脇腹を彼らに示された」のです。それを見た「弟子たちは主を見て喜んだ」のです。これはどういうことでしょうか?
1)今、 弟子たちの前に立っておられる方は、弟子たちが3年以上生活を共にしたあのイエス様だということです。同じからだを持っておられ、十字架上で傷つけられた手と脇腹はそのまま傷が残っていたのです。このイエス様はオバケではない、ということです。
2)しかし、このよみがえられたイエス様のからだは、以前のからだとは違っていました。19節にありますように、戸に鍵が掛けられているのに、その戸を通りぬけて来られることができるからだでした。つまり、「よみがえりのからだ」を弟子たちの前に示されたのです。これは私たちが神様によってよみがえらされる時にも与えられる「よみがえりのからだ」です。
イエス様はヨハネの福音書11:25で弟子たちに教えられて、
4.よみがえりは私たちに新しい使命、人生の目的を与えます。
21節を見てください。
イエス様によってこの世の中に送りだされた者として生きるのです。
それは丁度父なる神様がイエス様をこの地上に、私たちの所に送りだされたように、今度は、イエス様が私たちをこの世の中に送り出されるのです。
イエス様は天の御国からこの地球に、この世の中に遣わされてきました。どのように生まれたでしょうか?家畜小屋で生まれたのです。大工の子どもとしてナザレの田舎町で育ったのです。神様なのに人間の姿を取って来られ、へりくだって人々に仕え、そして神様の国について人々に語ったのです。そのイエス様が弟子たちをまた、私たちをこの世界に社会の中に遣わす、と言われたのです。イエス様が私たちクリスチャンに与えてくださった使命、新しい人生の目的は、イエス様によって、イエス様のようにこの社会の中に入って行き、神様の国について人々に伝えることです。イエス様の福音を宣べ伝えることです。クリスチャン同士が教会中で集まり、楽しくすごしているだけではだめなのです。イエス様に遣わされて教会の外に出て行き、社会の中で福音を伝えるのです。
この福音宣教は、聖霊の力によって行われることです。人間の力によるのではありません。そのことを示すために、イエス様は22節に弟子たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と言われました。弟子たちはペンテコステの日にこの約束の聖霊を受け、キリストの証人となる力を受けて出て行き、福音を宣教し、証ししました。
私たちも同じです。主イエス・キリストを信じた時に、神様は私たちに聖霊をくださいました。この聖霊の力によって私たちはキリストの証人となるのです。よみがえられたイエス様が与えてくださった新しい使命、人生の目的、福音をすべての人に伝えていくと言う事のために生きていくのです。
23節にありますように、このイエス・キリストの福音を信じ受け入れる人は罪が赦されます。しかし、福音を信じない人、受け入れない人の罪は神様によって赦されません。
ところが弟子の一人トマスはイエス様がよみがえられたことを信じ受け入れられませんでした。死んだ人が生き返るなんて、信じられない、ありえない、と思ったのです。これは当然のことです。このようなことは人間によってはなされません。よみがえりは神様の御業です。
そのような神様の御業を信じられないトマスにもイエス様はみ手を伸ばしてくださいました。一週間後、よみがえられたイエス様は再び弟子たちの前に現れ、トマスの前に現れて言われました。
と言われたのです。そのイエス様の呼びかけにトマスは、「私の主、私の神よ」とイエス様を信じ受け入れる信仰告白をしました。するとイエス様は「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」と言われました。
主イエス・キリストは十字架につけられ、三日目に死からよみがえりました。これは人間的な常識、科学的な知識では信じられないことです。これは人間の業ではなく、神様の御業です。イエス様はよみがえられて目には見えませんが今も生きて私たちの間に働いておられます。そして、トマスに言ったように、「見ないで信じる人は幸いです。」「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と今も私たちに語りかけておられるのです。
よみがえりは、私たちを「恐れから解放し」に本当の「平安」を、「喜び」を与えてくださいます。また、私たちも将来「よみがえりのからだ」が与えられる事を約束しています。その上、私たちがこの地上で生きていく間、新しい使命、新しい人生の目的を持って生きていくことを教えています。それは私たちが聖霊の力によってこの社会の中に入って行き、キリストの証人として福音を、神の国を宣べ伝えることです。