流れのほとり NO.19
<グリーン・トンネル>
玉川上水の“流れのほとり”に立つ。そこは柔らかい淡いグリーンのトンネル。その中にゆっくりと歩いて入り、上を見ると小鳥に、横を向くと若葉の枝に、下を見ると小さな花になったような気分になります。上水の流れは静かに流れて心に潤いと安らぎを与えてくれます。
旧約聖書の詩篇1篇に主のおしえを喜びとする人は、「流れのほとりに植えられた木」のようだ、と詠われています。緑の小径で流れを見つめながら歩を進めると、主なる神様の教えに従って生きる喜びが心の底から湧いて来ます。
<エデンの園>
聖書には、「川」がしばしば登場してきます。まず、最初はエデンの園です。
「一つの川がエデンから湧き出て、園を潤していた。それは園から分かれて、四つの源流となっていた。」(創世記2:10)エデンの園は川の水で潤って、きっと緑が豊かな美しい園であった、と想像されます。そしてこの世界の終わりの日に、「新しい天と地が神のみもとから、天から降りて来るのを見た。」そこには、「水晶のように輝く、いのちの水の川」があり、「川は神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。」(ヨハネの黙示録21:2,22:1~2)と聖書は教えています。
預言者エゼキエルは、これと同じような神殿から流れ出る水の流れの幻を見ました。「水が神殿の敷居の下から東の方へと流れ出ていた。」この水の流れは流れて行くと「水かさが増して渡ることのできない川となった。」「この川の両岸に非常に多くの木があった。この川の水が入るところでは、すべてのものが生きる」のです。(エゼキエル47:1,5, 7,9)
<いのちの水の川>
このように聖書では「川」はいのちの水の流れに例えられています。このように考えると、次のイエス様のことばがよく理解出来るのではないでしょうか?
「祭の終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。』イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」(ヨハネ7:37~39)
ここでの「祭」は、仮庵の祭のことです。「仮庵」とは、昔イスラエルの人々がモーセに率いられて荒野を彷徨っていた時を思い出すために作られた一時的な仮の小屋のことです。そこに泊まって過ごす祭です。つまりこの祭りは、神によってエジプトで奴隷であったところから、脱出し、救われて自由になったこと、荒野を彷徨い歩いた経験を思いだし、神に「救い」を感謝するお祭りでした。その祭りのフィナーレに、イエスはすべての人々に聞こえるように大声で叫びました。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
「イエスを信じる者」は、心や魂に渇きを感じている人で、イエスの所にやって来て、イエスの下さる水を飲む者です。イエスの水を飲む者は「心の奥底から生ける水が流れ出るようになります。」命が溢れる、生きている水が川となって流れ出て来るような人。神様の霊、聖霊の力によって内からいのちの水が流れ出る川の様な人に造り変えられるのです。
玉川上水の流れを見つめ、溢れる新緑のいのちを感じながら、「生ける水の川」が私の中から流れ出ている恵みを味わっています。