流れのほとりNO.13
クリスマス・カードや年賀状を受け取ることは嬉しいことです。
聖書に、
ということばの通りです。
友人、知人の近況を知るだけではなく、書かれた字や絵から彼らの気持ちを察します。年を取ってきた私の心には、随分昔の彼らとの思い出が「懐かしさ」、というバブルとして湧き上がってきます。
趣向を凝らした年賀状には思わず見入ってしまいます。今年は丑年なので牛の絵が付いた物が多かったですが、家族の写真入りのもの、それも孫たちも入って写真がはち切れそうなもの、かつてはそのように多くの家族が載っていたのが、夫婦二人だけに戻ったもの。年を取っても元気だぞ~、と叫んでいるような登山姿のもの、旅行先で撮ったもの。今年しか見られないものとしては(そのように願っていますが)、ZOOMで同じ画面に家族全員が箱に入ったように写っている家族写真がありました。
私は宣教師時代から、宣教報告を兼ねたクリスマス・レターを送っています。4月から上水めぐみキリスト教会の協力牧師になったこと、上水めぐみキリスト教会で経験した神様からの恵みについてレターに書いて出しました。
クリスマス・レターと共に私が書いた小冊子「人間らしく生きる」を多くの友人に贈りました。驚いた事に何人もの友人がそれを読んで、丁寧な批評文を送ってくれました。ダジャレの返礼として、「これで『人間らしく生きれるようになりました。』」と書いてくれた人、(それじゃ、今迄君は何だったのだ、とツッコミたくなる)「君の声が聞こえるようでした。」(私の声がそんなに美声であるとは知らなかった?!)
聖書には何通もの手紙があります。新約聖書の目次を開いてみてください。
使徒パウロの書いた13の手紙があります。その後に、パウロが書いたのではないか、と想像させる匿名の手紙ヘブル人への手紙、そしてヤコブの手紙、使徒ペテロの手紙が2通、そしてヨハネの手紙3通とユダの手紙があります。
これらの手紙の中でも、パウロの書いたイタリヤのローマにある教会のローマ人のクリスチャン達に書いた「ローマ人への手紙」には、大切で根本的な神様の教えが、筋を通して書き、説明されています。
ということは、イエス・キリストの十字架とよみがえりによって私たちの罪が赦される、という福音を信じることによって、私たちは神様の前に義、罪のない正しい者とされるということが皆に分かるように示されているのだ、ということです。それは、私たちの善行によるのではなく、ただ信仰によるのです。ですから旧約聖書に書かれているように、神の前に義とされる人(義人)は、信仰によって生きる、ということです。
また、多くの人が神なんて信じられない、神は存在するの、と言いますが、
神様の力と神様の性質は、宇宙が創造された時から神様によって創造された私たち「被造物」が知っていて、認められているお方です。ですから私たち人間は、神様の前で「神なんて知らなかった」と弁解することはできません、と教えています。
イエス・キリストによる救い、神様によって罪を赦され、義とされることは、イエス・キリストを信じることによって与えられます。そこにはその人の人種や性別、地位、教育、貧富による差別はありません。
私たちは自分の犯した神様に対する罪のために裁かれます。その裁きの報酬は死です。しかし、イエス・キリストを信じて罪を赦された者には、永遠のいのちが神様から与えられるのです。