日本福音キリスト教会連合

主を恐れて生きると起こって来ること

 
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2022年4月から「上水めぐみキリスト教会」の牧師。 サイクリングやジョギングが趣味。

使徒の働き2章39~47節

この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」
ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。
彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。
彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。
すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。
信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、
財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。
そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。
聖書 新改訳2017

今年の目標聖句は「主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった。」です。この聖句から4つのポイントを特に覚えていきたいと思っています。それは、① 主を恐れること、② 聖霊に励まされること、③ 前進し続けること、④ 信者の数が増えること、の4つです。

先回、「主を恐れて生きる」と題して使徒の働き2章14節から38節までの所からお話ししました。今日はその続きです。主を恐れて生きると、私たちにどんなことが起こるのでしょうか?私たちは使徒たちの経験からそれを学びたいと思います。

「主を恐れる」思いは、私たちが聖書のことばを通してイエス様が神様であることを知る時に、聖霊が私たちの心に働かれ、私たちの罪が示されます。そして私たちに聖い神様を恐れる心が出て来ます。私たちが神様のきよさを知れば知るほど、きよい神様への恐れが深まります。1月10日の「みことばの光」に民数記4:1~20節の箇所を奥田先生は「私たちは聖なる神にイエスの血によって大胆に近づくことができる。・・・しかし、主が聖なるお方であることに変わりはない。聖なるお方を自分の思い通りに動かそうとするなら、主はご自分の聖さを現わされるだろう。人が聖なるお方に仕えることは容易なことではない。しかし主はあわれみの中に信仰者を召し、志を立てさせ、必要な知恵と力、そして助けを与えてくださるのである。」と書かれていました。

私たちは聖い神様を信じた時、神様は二つの事を与えてくださいます。一つは罪の赦しです。もう一つは、聖霊です。先程言いましたように、この聖霊なる神様が私たちに主を恐れる思い、心を与えてくださいます。私たちは、神様をいつも恐れて生きていくのです。この父なる神様の約束は39節にありますように、ユダヤ人たちだけではなく、「遠くにいるすべての人々」つまり世界中の人々に与えられるのです。与えられる条件は、「主に召された人ならだれでも」と言われています。これはどういうことか、と言いますと、聖霊の賜物は、一部のクリスチャンたち、牧師、伝道者、だけに与えられているのではなく、全ての人、金持ちも、貧乏人も、頭の良い人も、それほど頭がよくない人にも、与えられるのです。

1.曲がった時代から救われる。

ペテロの説教はここで終わらず、40節にありますように、「この曲がった時代から救われなさい」と言いました。これはどういう意味でしょうか?それは先回も言いましたが、この世の考え、価値観、まことの神様を認めない考えから出て来た習慣、行事、活動等に従うのではなく、キリストを中心とした考え、その考えに基づく行動、活動をして生きていくことが命令されているのです。クリスチャンたちが教会の中に籠って社会の事に関心を持たず、社会の悪に対しても発言も、行動も取らないのではいけません。みことばに生かされている者として社会の悪、神様のお名前を汚す行いやお名前を否定するような考えに反対し、警告を発していかなければなりません。例えば、最近は「神」ということばを軽々しく使ったり、遊んだりする人々がいます。そのような人に私たちは「神ということばで遊んではいけない」と言わなければなりません。

イエス様を信じ、聖霊を受け、主を恐れ、バプテスマを受けた人々にはどんなことが起こったでしょうか?

42節から47節を見てください。ペテロの説教を通して神様は3千人を救いに導かれました。そのことを聖書は「その日、3千人ほどが仲間に加えられた。」と記しています。「仲間に加えられた人たちは、何をしたでしょうか?

2.「彼らはいつも使徒たちの教えを守」りました。

仲間になった人たち、つまり教会は、使徒たちの教えを守るために、いつも熱心に学んだのです。使徒たちとは、43節にありますように、よみがえられたイエス様に会ったことのある弟子たちで、イエス様に使徒として選ばれた人たちです。彼らは神様から特別の力と権威を与えられた人で、「多くの不思議としるし」を行いました。また、聖霊の霊感を受けて新約聖書を書きました。ですから「使徒たちの教え」とは、聖書のことば、神のことばのことです。弟子たちの仲間に加えられた人たちは、聖書を熱心に学び続けたのです。私たちも、教会もこのように聖書をいつも熱心に学ぶ者たちでなければなりません。

3.仲間になった人たちは、いつも熱心に「交わりを持ち」ました。

「交わり」と訳されているギリシャ語は、コイノニアと言います。玉川上水の鯉が笑ったということではありません。ちょっと難しいことを言って申し訳ありませんが、このコイノニアということばはコイノス(共通の)(鯉の巣ではありません)ということばから出て来たことばです。クリスチャンの交わりは第一ヨハネ1:3に「私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。」とありますように、三位一体の神様との共に(コイノス)交わる経験をすることがコイノニアという交わりです。また、私たちの間で自分が持っているものを共通のもの(コイノス)にする、つまり分け合い、受け合って行くことがコイノニアの交わりです。ですから、Ⅱコリント9:13でパウロは「すべての人に惜しみなく与えるようにこと」と書いている時もこのことばを使っています。この交わりの具体的なことが44~45節に書かれていますように、彼らは一切のものを共有し、それぞれの必要に応じて皆に分配していました。コイノスから出て来たもう一つのことばにコイノニコスということばがあります。これは寛大なとか物惜しみしない、という意味です。イエス様を信じて使徒たちの仲間になったクリスチャンたちは、三位一体の神様との親しい交わりとクリスチャン同士の親しい交わりを持っている人たちでした。また、困っている人たちを寛大に助け合い、ケアしていく人たちでした。

4.仲間になった人たちは「パンを裂き、祈る」人たちでした。

この「パンを裂き、祈りをする」ということは神様を礼拝するということです。先回も言いましたが、日本の特に福音的な教会は、神様を恐れ、厳粛な気持ちで神様の前に出て礼拝を捧げる、ということが弱く、むしろ、楽しい、温かい雰囲気の集会、人間的な交わりを強調する教会が多いようです。イエス様はヨハネの福音書4:24で「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」と教えておられます。私たちはこのような態度で神様を礼拝しているでしょうか。42節に「パンを裂き、祈りをしていた。」とあります。この「パンを裂き」と「祈り」には原文では定冠詞がついています。英語的に言いますならば、「ザ・パン裂き」、「ザ・祈り」となっているのです。ですからこの「パンを裂きと祈り」は、聖餐式と祈祷会を表しています。46節から分かることは、彼らは宮でも、家でも集まり礼拝をささげていたのです。ここから分かることは、彼らはユダヤ教の形式に従って、形式的にきちんと整った礼拝をささげると同時に、家で集まり、余り形式にとらわれない礼拝をささげていたことです。また、46節と47節から分かりますように、その礼拝は喜びと真心(心の純真さ)で特徴づけられるものでした。この喜びは聖霊が結ぶ「実」です。真心は神様を恐れることから生じるものです。43節に「すべての人に恐れが生じ」とありますように、礼拝は神様を恐れ、聖霊なる神様によって喜びに溢れる礼拝であるべきです。

5.仲間になった者たちは、福音を伝道する、証しする人たちです。

47節を見てください。「主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」とあります。福音伝道は、主なる神様のお働きです。47節に「主は」とありますように、主は彼ら、私たちクリスチャンの口を通して、私たちの行いを通して私たちの生き方、生活態度を通して人々の心に働かれます。私たちは主に信頼し、祈り、主の導きを求めながら、自分の友人や知人に福音を伝え、証しをするのです。その時、主は「毎日」救われる人々を起こされたのです。毎日ということはパウロのことばを使えば「時がよくても悪くても」ということです。1年に1,2度友達を教会に誘ったから伝道したと言うことにはなりません。確かに友人、知人、家族を教会に誘うことは良いことです。教会の伝道的なイベントに誘うことも良いことです。また、電話やラインしたりすることも良いことです。しかし、私が最も大切だと思っていることは、その人たちのことを祈ることです。また、私たちの生き方、生活を通して福音を証しすることです。私たちは自分では気が付かないかも知りませんが、人々は私たちの生活の仕方、行動をよく見ているのです。もし私たちが三位一体の神様と親しく交わっているならば、人々は私たちの中にまことの神様がおられることを感じ、察します。そして私たちに質問してきます。「何であなたはあのようなことをするの?」「どうしてあのようなことを言ったの?」「あなたは日曜日に何をしているの?」これが47節の「神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。」という彼らの生き方だったのではないでしょうか。その時に私たちも彼らと同じように、クリスチャンの考え方、生き方、行いについて説明し、イエス様の十字架による救いの御業について証し出来るのではないでしょうか?

一日に3千人の人が救われなくても、私たちの周りから幸町から、若葉町から、救われる人々が多く起こされるように祈り、証しして行きましょう。お祈りしましょう

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