流れのほとりNO.31
<軽石が重い問題>
先日来報道されていますが、沖縄の港に軽石がやって来て、港を覆い尽くしてしまった、というニュースには驚かされました。テレビで見ると、きれいな沖縄の島々の海岸が軽石で埋め尽くされて茶色になっています。
軽石と言うと、皆さんは何を思い出しますか?
私はお風呂です。風呂場の石鹸入れの中に軽石が入っていました。お風呂でその軽石を使って足のかかとをこすって固くなった所を取りました。今思えば、このような軽石はきっと火山から大きな軽石を取って来て小さく切って売っていたのでしょう。
<海の中に火山があるの?>
火山が噴火し、溶岩として出てきたものの一部に軽石のような岩石があるのでしょう。
それがなぜ沖縄の港を埋め尽くしているのでしょう。それは今年の夏に海中で大噴火した「福徳岡ノ場」という海底火山から流れてやって来たのだそうです。私たちは目に見えないとその存在を知らない、ということが多いです。火山と言えば肉眼で見える山、浅間山、北海道の有珠山を想像します。しかし、目には見えませんが海の中にも多くの火山があり、あるものは活発に活動をしています。そのような海底火山の一つがこの「福徳岡ノ場」火山です。
<目に見えない海の中>
何回か前にこの「流れのほとり」に私は宇宙よりも海中に興味関心がある、ということを書きました。その時書いた「しんかい6000」と言う深海探査艇は、間違いで、今あるのはもっと深く潜れる「しんかい6500」だそうです。いずれにしても、海の水で覆われていて目では見えない世界、海中世界にはまだまだ私たちの知らない魚などの動物や植物や鉱物があり、地上では観察できない物事が起こっているようです。海底火山活動もその一つです。2,3年前には、西ノ島の火山が爆発してその溶岩で島がどんどん大きくなり、元の島の2倍以上になったことがありました。
<信じない者にならないで、信じる者になりなさい>
目に見えないから信じない、と言う人がいます。しかし、私たち人間の目で見えるものは物事のほんの一部に過ぎません。私たちの日常生活の中で関わっていることには目に見えないことの方が多いのではないでしょうか。例えば、私たちの考えや思い、気持ち等は目に見えませんが確かにあり、複雑です。先日、私は預かっていた他人のマンションの鍵を紛失してしまいました。徹底的に、可能性のある所を一生懸命探したのですが見つかりません。すると、心が乱れて、他のことを考えることも、何をするにも集中できずに落ち込んでしまいました。幸い10日後に夢を見ました。その夢で散歩の時に公園で落としたのではないか、という気付きを与えられて、その公園事務所に行ったら、親切な方が届けていて下さり、見つかったのです。その途端に、私の心はことばでは表現できないような安らぎ、平安、自分自身を取り戻すような気持ちになりました。
というイエスのことばが浮かんできました。
今、私たちは港をカバーしている軽石を見て、海底火山の噴火の事実とその大きさを想像し、知ります。私たちは目に見えない私たちの心の動きの中に喜怒哀楽を感じ取ります。
このようなことを考えていると、聖書のことば
が心に浮かんできました。私たちの生涯は8、90年、長い人は100年以上生きられますが、限界があります。つまり一時的です。「永遠に続く、見えないもの」とは、創造主なる神様です。その神様の自己紹介書である聖書を読んで目には見えないが、永遠に変わらないまことの神様に「目を留めてください。」