神はえこひいきされない
使徒の働き10章23b~48節(聖書本文はこちら)
偏見と言うものは一度持ってしまうとなかなか取り除きにくいものです。ですから聖書はこの10章と11章でそのことを教えているだけではなく、別の個所でもこの事を繰り返して教えています。
いつ頃からなのでしょうか。日本人の多くが韓国人や中国人に偏見を持つようになりました。新聞やテレビで取り上げられ、問題になっている「ヘイトスピーチ」でもそのような偏見を持っている人が今でも多くいることを知る事が出来ます。
1.コルネリウスとペテロに同時にあらわれた聖霊の働き
ユダヤ人はユダヤ人以外の人を異邦人、外国人と呼んで嫌い、差別し、偏見を持っていました。しかし、主イエス・キリストはそのような偏見を取り除いてくださいました。先週お話しましたように、クリスチャンになると、主イエス・キリストによって偏見から解放されて、自由と喜びの中に生きる者とされます。
ペテロはコルネリウスからの遣い3人をシモンの家に迎え入れ、翌日、コルネリウスの家に向かって旅立ちました。コルネリウスの遣い3人とペテロとヤッファのクリスチャンたち6人(11:12)と総勢10人がカイザリアに旅立ったのです。
一方、コルネリウスはペテロが来るのを今か今かと待ち望んでいました。ですから、親族や友人たちを自分の家に呼び集めていました。そしてペテロの一行が到着したと聞くと、喜んで家から飛び出して行って、ペテロの前にひれ伏してペテロを拝んだのです。ところがペテロは26節にありますように「お立ちください。私も同じ人間です」と言ったのです。
これは大切なことです。クリスチャンではない人は、ともすると尊敬する人や偉大だと言われる人を「神」のように思ってしまうのです。このような人間崇拝は偶像礼拝です。十戒の第一戒に「あなたはわたし以外に他の神があってはならない」とありますように、私たちクリスチャンは例えどんなに人間的に偉大な人でも人間は人間であって神ではありませんから、拝んではいけません。
ペテロは家の中に入り、そこに集まっていた人々に話しました。「みなさんよくご存じのとおり私たちユダヤ人は、外国人を訪問したりする事はユダヤ人の習俗によると許されないことです。ところが神様は私に、どんな人の事も、きよくない者であるとか汚れた者であるとか言ってはならないことを示し、教えて下さいました。ですからコルネリウスさんからお招きを受けた時に、「ためらうことなく」こちらにやってきたのです。
ところで、皆さんはどういうわけで私をここに招いてくださったのですか?」このようにペテロが話すと、コルネリウスさんは答えました。「実は4日前に私が午後3時の祈りをしている時でした。幻を見ました。その幻の中に輝いた衣を着た御使いが現れてこう言ったのです。『あなたの祈りは神様に聞かれました。あなたはヤッファにいるペテロと言う人を招きなさい』と。そこで私は「すぐに」何のためらいもなくあなたの所に3人の遣いを送ったのです。今、私たちはみなあなたを大歓迎しています。あなたを通して神様が命じ、教えられることを聞きたいと思っております。」
するとペテロはガッテンがいったのです。神様はコルネリウスとペテロに同時に働き、神様の大切な教えを伝えられた事が分かったのです。
2.神様は、「神を恐れ、正義を行う人」をだれでも受け入れてくださる。
ペテロは何が分かったのでしょうか?
それは、神様はえこひいきをする方ではないことです。
えこひいきをしない、ということはどういうことでしょうか?
それは、神様が「神を恐れ、正義を行う人」(35)をだれでも受け入れてくださる、ということです。「どこの国の人でも」と言うのですから、ユダヤ人は良いけれど、外国人はダメとか、男の人は良いけれど、女の人はダメとか、そのような「えこひいき」はない、ということです。
それでは、「神を恐れ、正義を行う」ということはどういうことなのでしょうか?
- 神を恐れる
「神を恐れる」ということを教えるために、神様は最初、イスラエル人を選び、彼らに語りかけ、預言者たちを通して「みことばを送り」(36)ました。そして最後にイエス・キリストによって「平和の福音」(36)を宣べ伝えられました。
「平和の福音」と、「平和」ということばが福音に付いているのは、福音がただ神様と私たち人間の間の平安、和解を意味するにとどまらず、「平和」のヘブル語、シャロームの意味が強調されているのです。
シャロームとは私たちの人間の全生活に及ぶ平和なのです。その上このイエス・キリストによる「平和の福音」はユダヤ人だけにとどまらず、全ての人のためのものなのです。(36)
- 正義を行う=罪の悔い改め
「正義を行う」ということは、コルネリウスを初め皆さんは聞いた事があると思いますが、バプテスマのヨハネと言う預言者が言った、神様の前に罪を悔い改めることです、(37)とペテロは説明します。ヨハネは彼の後に来られる方、イエス・キリストが私たちの罪を完全に赦してくださる方だと告げました。38節にありますように、父なる神様は、このイエスに聖霊と力によって油を注がれました。「油を注ぐ」というのは、王様として王位に着かせる、と言う意味です。父なる神様は香油ではなく、聖霊の油と力を注いでイエスを王なる神様とされたのです。ここに三位一体の神、父と子と聖霊の神様がともに働かれていることが示されています。
このように聖霊の力を受けて、主イエスは、パレスチナ地方を巡り歩き、主イエスが神様であることを示すよい業を行い、また、悪魔の仕業に苦しめられている人々を救いだされました。
ところが、ユダヤ人たちは主イエスを拒絶し、旧約聖書の申命記に「木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。」(21:23)とあるように、主イエスを呪われた者にしました。主イエスは、私たちに代って私たちの罪の呪いを受けて、呪われた者となり、木の十字架につけられ、殺されてしまいました。
しかし、神は主イエスを三日目に死からよみがえらせられました。よみがえられた主は弟子たちに現れて、一緒に飲んだり、食べたりしました。また、主イエスがさばき主であることを人々に宣べ伝えるように弟子たちに命じられました。そのさばきとは、自分の罪を悔い改め、主イエスが自分の罪の身代わりになって、木の十字架に付けられ、死んだ事を信じる人と信じない人とにさばくさばきです。
ペテロは続けます。「私たち使徒たちは、この主イエス・キリストと生活を共にして、教えを受け、十字架の死をこの目で見た者です。その上、よみがえられた主イエスと飲食を共にして交わった者たちです。また、長い間の歴史を通し、預言者たちを通して預言されてきたメシア、救い主が主イエス・キリストである事、神様の救いの御業、主イエスの十字架上の死とよみがえり、主イエスによるさばきが真実であることを証言する証人なのです。
私たちは、『イエスを信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられると証ししています。』(43)」
これが「神を恐れ、正義を行う人は神に受け入れられます。」(35)ということです。
3.聖霊のバプテスマ
「イエスを信じる者はだれでも」(43)とありますように、神様はえこひいきをしない方です。どこの国の人でも、日本人でも韓国人でも、中国人でも、タイ人でもヴェトナム人でも、その人がイエスを信じる人、神を恐れ、正義を行う人であればだれでもその人の罪を赦し、救って下さるのです。
その時、神様はペテロのメッセージを聞いている人々に聖霊を注がれたのです。それはちょうど使徒の働き2章に書かれていた、弟子たちの上に注がれた時と同じように聖霊が主イエスを信じる異邦人であるすべての人々の上に注がれたのです。彼らは異言を語り、神様を賛美しました。
これを見たペテロを初め、カイザリアから同行してきたクリスチャンたちは驚きました。外国人のコルネリウスを初め、そこに集まっていた多くの人々が主イエス・キリストを信じ受け入れた事、その上、自分たちと同じように聖霊を受けたことを見て知ったからです。
本物のクリスチャンになったのですから、何の差別もありません。皆神様の子ども、主にある兄弟姉妹です。ペテロはその信仰を見て、彼らに水によってバプテスマを授けさせました。最初にコルネリウスです。
バプテスマを授けたら、ペテロは、日本人みたいに私たちは忙しいから、これで失礼します、とは言いませんでした。コルネリウスたちはペテロに「何日か滞在してもらった」のです。彼らはこれからクリスチャンとしてどのように生きて行くのか、クリスチャン生活というのはどのようにして生活していくのかを教えてください、と願ったのでしょう。
4.結び
私たちも同じです。イエス様を信じる決心をした。伝道集会で手を挙げて決心した。水のバプテスマを受けた。クリスチャンになった。ところがこれでクリスチャンになったから終わり、後は以前と同じような生活をしていく、と言う人がいます。そういう人は、クリスチャンになったと言うのに、外国人に偏見を持ったり、悪く言ったり、受け入れなかったりします。クリスチャンになったと言うのに、あの人は社会的に偉い人だ、と必要以上に高くあがめて、偶像のようにして拝み、その人の言いなりになったりして、神を恐れ、神の正義を行わない人がいます。クリスチャンになったと言うのに、生活の中心に主イエス・キリストがいない人がいます。そのような人は、これは昔から行っている習慣だからと言って、お祭りに神社に寄付したり、お賽銭を上げたり、お寺に行って仏像を拝んだりしているのでは、本当に「神を恐れ、神の正義を行う人」ではありません。これでは本心から主イエスの十字架とよみがえりを信じているとは言えないのではないでしょうか。
ペテロたちはカイザリアに何日か泊って、「使徒の教え」今でいうならば、聖書を教えたのです。私たちも毎日少しずつ聖書を読みましょう。聖書の教えを説明したクリスチャンの生活に関する本を読みましょう。毎日少しでも祈りましょう。祈る時、自分の願い事ばかりを祈るのではなく、まず詩篇の祈りのように神様の事を思い、神様の素晴らしさを賛美しましょう。神様が成してくださった素晴らしい恵みを数えて感謝しましょう。讃美歌を歌って神様を賛美しましょう。自分の犯してしまった罪を悔い改める、悔い改めの祈りをしましょう。他の人の必要のため、また、教会の祈祷課題を祈りましょう。そして自分の願い事を祈りましょう。ある人は自分が祈った事をノートに書き留めています。すると、後に神様がどのように自分の祈りに答えて下さったかを知る助けになります。自分が聖書を通して教えられた素晴らしい喜び、素晴らしい教えを他の人に話しましょう。又、祈りに神様が答えてくださったことも他の人に話してみましょう。もしできるならば、聖書のことばで心に響いたことばを暗記してみましょう。
聖霊の注ぎを受けて、新しいいのちの力で強められて、いきいきとした、喜びと感謝にあふれるクリスチャン生活をしていきましょう。お祈りします。
そして次の日、ペテロはカイサリアに着いた。コルネリウスは、
ペテロが着くと、コルネリウスは迎えに出て、
するとペテロは彼を起こして、「お立ちください。
そして、コルネリウスとことばを交わしながら家に入り、
その人たちにこう言った。「ご存じのとおり、ユダヤ人には、
それで、お招きを受けたとき、ためらうことなく来たのです。
すると、コルネリウスが言った。「四日前のこの時刻に、
こう言いました。『コルネリウス。あなたの祈りは聞き入れられ、
だから、ヤッファに人を送って、
それで、私はすぐにあなたのところに人を送ったのです。
そこで、ペテロは口を開いてこう言った。「これで私は、
どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、
神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・
あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、
それは、ナザレのイエスのことです。
私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムで行われた、
神はこの方を三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。
民全体にではなく、
そしてイエスは、ご自分が、
預言者たちもみなイエスについて、この方を信じる者はだれでも、
ペテロがなおもこれらのことを話し続けていると、
割礼を受けている信者で、ペテロと一緒に来た人たちは、
彼らが異言を語り、神を賛美するのを聞いたからである。
「この人たちが水でバプテスマを受けるのを、
ペテロはコルネリウスたちに命じて、イエス・
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