イエスから目を離さないでいなさい。ヘブル12:1~2
ヘブル人への手紙12章1節~2節
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、
今日は召天者記念礼拝です。私たちはかつてこの教会に来ていた方々や教会の関係者で、今は、すでに天の御国におられる方々の事を覚え、その方々の信仰人生を神様に感謝します。また、私たちはそれらの方々の事を思い出し、その信仰に倣って行きたいと思っています。
1.私達は多くのクリスチャンの先輩たちの信仰生涯の「雲」に取り囲まれている
これは聖書が教える事でもあります。ヘブル人への手紙12:1は「こいうわけで」と始まっています。「こいうわけ」とはどういう訳なのでしょうか?それは11章に書かれていることです。少しそこを開いてください。
11:2に「昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。」とあって、3節から「信仰によって」ということばで何人ものクリスチャンたちが紹介されています。4節にアベル、5節にエノク、7節にノア、8節にはアブラハム、20節にイサク、21節にヤコブ、22節にヨセフ、23節にモーセ、31節にラハブと多くの過去の人々の信仰生活が書かれています。
「こういうわけで」とは、このように多くの人々が神様を信じ、従って生きた信仰生活の例を見ればわかるように、ということです。この人たちの「信仰によって」生きた人生、生涯は、私たちに同じように信仰をもって生きるならば、あなたもこの人たちと同じ素晴らしい信仰生活、経験をするよ、と言う証拠であり、この人たちはそれを保証する証人である、と言っているのです。
その上、その証人の数は一人や二人ではなくて、何千年という時代を越えて、非常に多くの数の人々なのです。私たちクリスチャンは、ある人は家でたった一人のクリスチャンという人もいるかもしれません。会社でもクリスチャンは誰もいない、私一人だ、という人もいるかもしれません。しかし、目を上げてみてください。日本にはクリスチャンの数は少ないかも知れませんが、韓国でも、香港でも台湾でもクリスチャンが大勢います。シンガポールで病院に行くと殆どのお医者さんと看護師さんがクリスチャンです。私たちが目を上げて世界中を見ると、また、歴史を紐解いて見ると分かりますが、多くの人が神様を信じ、イエス・キリストを信じているクリスチャンなのです。この聖書の表現を使えばクリスチャンが多くいて、「雲のように」私たちの周りを取り囲んでいるのです。
皆さんは雲に取り巻かれた経験がありますか?高い山に登ると経験できます。初めは霧かな、と思っていたらどんどん霧が濃くなって来て、周りの物が何にも見えなくなってしまいます。見えるのは「雲」だけです。
私たちクリスチャンたちはそんな風に多くのクリスチャンの先輩たちの信仰生涯の「雲」に取り囲まれているのです。すでに召天した兄弟姉妹のことを思い出してください。あの人は病気で苦しかったのに訪ねたらいつも笑顔で喜んでくれた、一緒に祈った時のこと、見舞いに行った自分のことを励ましてくれたこと、優しいことばをかけてくれたこと、色々と思い出す時に、私たちはその方々が信仰をもって生きられた、信仰によってなされたことを知ります。
2.どのように生きるべきか?
このように多くのクリスチャンたちの証しに囲まれている私たちはどのように生きたら良いのでしょうか?
四つのことが教えられています。
- 一切の重荷とまとわりつく罪を捨てることです。
- 自分の前に置かれている競走を走ることです。
- その競走を忍耐をもって走り続けることです。
- 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいることです。
それらをもう少し詳しくお話しします。
①一切の重荷とまとわりつく罪を捨てることです。
「一切の重荷」とは何のことでしょうか?
ここではクリスチャンの人生、生活をマラソン競走にたとえています。マラソン・ランナーは身に着けるものをできるだけ軽くします。靴は200グラムしかありません。シャツもパンツも軽く通気性の良い物を着けます。ふざけた仮装マラソンは別ですけれども普通のマラソン競走は「重いもの」を着けずできるだけ身を軽くして走ります。クリスチャン人生も同じです。霊的なマラソン競走をするのに妨げにならないように重い荷物を捨てて、身軽になって走ります。そのような「重荷」にはどんなものがあるでしょうか?
今迄クリスチャンになる前まで自分が(自分の中に)持っていた考え、習慣、価値観などではないでしょうか。あらゆる種類の劣等感を持ったりすることです。教育(私は勉強ができないからクリスチャンになれない)、社会的地位、経済的余裕(私は貧しい家の者だからクリスチャンになれない、献金するお金もないからクリスチャンになれない)、身体的外観(アメリカ人の宣教師さんは恰好いいが、私は背も小さく、顔も良くないからクリスチャンになれない)などが「重荷」になることがあります。クリスチャンになったら、このような自分の中に着けている「重荷」を「一切」というのですから、すべて捨てることが大切です。捨てなければ霊的なマラソン競走を走っていて疲れてゴールまで行けません。
また、「まとわりつく罪」を捨てなければ走れません。マラソンを走っている時、ゴミや紐のようなものが足にまとわりついたら走れません。それを取って捨てなければ競走は続けられません。同じように、私たちが霊的なマラソンを走っている時に外からゴミや紐のようなものが絡み付いて来ます。それには友達の誘惑があります。
私はクリスチャンになってからこのような誘惑を受けました。たとえば、日曜日に遊びに行こうと友達が誘うのです。クリスチャンの集会に行こうとしていると「牧野暇だろ、喫茶店に行こう。」一緒にドイツ語を勉強するから牧野も仲間に入れ、と言われたので行ったら、彼らはマンガを読んだり、マージャンしたりしていて勉強しないのです。ところが私はきっぱりと帰ると言えない弱い者でそのグループと付き合っていたことが何回もありました。こう言うのは外から私に「からみつく罪」です。私たちが神様に向かって走って行こうとするのを邪魔するものです。
②自分の前に置かれている競走を走ることです。
マラソンはどんなに早く走ってもコースを間違えたら失格です。コースに従って走らなければなりません。
神様は私たち一人一人が走るべき人生のコースを用意していてくださいます。ですからここで「置かれている」と言われているのです。自分で勝手にコースを決めるのではないのです。神様が私たちにそれぞれの走るべきコースを用意して私たちの前に置いてくださっているのです。そのコースがどういうコースなのかを知るのが神様のみこころを知る、と言うことです。自分のコースを走ることが大切です。他人のコースを見て、あっちの方が走り易く見えるから、きれいだから、下り坂だから、と言って他人のコースを走るならば、失格です。私が今から60年以上前にクリスチャンになった時、私が宣教師になるコースを走る、とは知りませんでした。タイ国に住んでタイ人に聖書を教え、伝道する生活が神様が私に備えられ、私の前に置かれたコースだとは夢にも思いませんでした。しかし、神様がそのコースを示し、導いてくださり、私の前に置かれたコースを走って来たのです。
③その競走を忍耐を持って走り続けることです。
霊的なマラソンは普通のマラソンと同じように辛く、長い時間がかかる競争です。ですから忍耐を持って走らなければなりません。50メートルや100メートル競走とはそこが違います。霊的なマラソンには、もう息が止まりそうになる苦しい時があります。足が動かなくて走り続けられなくなりそうにもなります。しかし、ここで教えられていますように、忍耐を持って走り続けることが大切です。例えば、クリスチャンになったのに、不況になって仕事が無くなり、どうしようもない苦しい時に直面することもあります。まだ30代なのに重い病気になって、仕事ができなくなることもあります。東日本大震災や台風の被害のような困難に直面することもあります。私たちがクリスチャンとして必要なことは忍耐です。忍耐は聖霊が結ぶ実の一つです。聖霊なる神様の助けと働きによって私たちが忍耐を持ってこの霊的マラソンを走り続けることが大切です。
④信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで走り続けることです。
私たちがクリスチャン人生というマラソン競走を走る時に大切なことはゴールであるイエス様を見つめて、ゴールから目をそらせないで走り続けることです。先程、「自分の前に置かれている競走」と言う所でも説明しましたが、私たちはコースから外れて走ったら失格になります。コースから外れないためには、ゴールを目指して、ゴールから目をそらせないで走ることです。私たちの霊的マラソンのゴールはイエス・キリストです。このイエス様は、私たちの信仰を始めて下さった方、創始者です。と同時に、最後に、ゴールに着いた時に私たちをクリスチャンとして完成してくださる、完成者でもあります。このイエス様を見て、そこから視線をそらさないで走り続けるのです。このイエス様はどういうお方だったでしょうか。2節に「ご自分の前に置かれた喜びのために」とあります。1節でも「自分の前に置かれている」と言う同じことばが出てきました。1節では私たちの前に神様がおかれた競走のことでした。2節では神様がイエス様の前に置かれた喜びです。この「喜び」は何であったか、詳しくここに書かれていません。しかし、2節の「喜びのために」は脚注のように「喜びに代わりに」とも訳すことができます。このように訳し理解すると、イエス様はこの地上での人生を「喜びに代わって」十字架の苦しみと辱めをゴールとして歩まれました、ということになります。そして今は、「神の御座の右に着座されたのです。」つまり、私たちこの地上で人生マラソンを走っている一人一人のために祈り、とりなしていてくださるのです。イエス様は十字架の苦しみ、辱めを耐え忍ばれたお方です。イエス様と同じように、私たちは、イエス様が信仰を始めてくださり、それを完成させてくださるゴールに到達するまでにいろいろな苦難を経験します。それらを耐え忍んで走って行くのです。これがイエス様から目を離さないで走って行く、ということです。
3.イエス様の励ましとサポート
このように人生マラソンを走り続けるクリスチャンたちをイエス様は励まし、力を与えてサポートしてくださるのです。
私たちも「信仰によって」自分のマラソンを走り始めましょう。忍耐を持って走り、イエス様からの支援を受けて疲れず、元気に走りましょう。自分の中に持っているコンプレックスという重荷、世間体という重荷、自分中心の考えという重荷を捨てて、また、周りの人々から絡み付いてくるような誘惑などを捨てて、ゴールであるイエス様から目を離さずにひたすら走り続けましょう。
Comment
牧野先生へ
先日はメールをありがとうございました。
覚えていてくださり、祈り続けてくださったと知り、感動しました。ありがとうございます。本日、またメッセージを聞きたくてサイトを訪問しました。