私の神は主である
1月24日主日礼拝 列王記18章1~15節
そこで、エリヤはアハブに会いに出かけた。そのころ、
アハブは宮廷長官オバデヤを呼び寄せた。
かつてイゼベルが主の預言者たちを殺したときに、
アハブはオバデヤに言った。「国内のすべての水の泉や、
二人はこの国を分けて巡り歩くことにし、
オバデヤがその道にいたところ、エリヤが彼に会いに来た。
エリヤは彼に答えた。「そうです。行って、
すると、オバデヤは言った。「
あなたの神、主は生きておられます。
今、あなたは『行って、
私があなたから離れて行っている間に、
あなたには、イゼベルが主の預言者たちを殺したとき、
今、あなたは『行って、
すると、エリヤは言った。「
1. 場面設定
1.1.サマリアでの飢饉のひどさ
今日の箇所は「かなりの日数を経て、三年」が経ったということから始まります。というのも、か
つてエリヤにこのような主のことばがありました。
それゆえ、
エリヤがしばらく過ごしていたケリテ川は涸れて干上がり、彼は貧しいやもめのもとに身を寄せました。そのやもめの状況は次のようでした。
1.2.アハブの背信
なぜ、このようなひどい飢饉があったのでしょうか。それは国王であるアハブがイスラエルの神である主を捨てた罪のゆえであると聖書は告げます。アハブについては16:30-のところにこのようにありました。
主の「ことばによるのでなければ数年の間、露も降りず、雨も降らない」。
しかし当のアハブは、自らが原因で飢饉が起きているとの自覚はないようです。彼はこの飢饉の中、主へと立ち返るのではなく、家臣を呼び出し、自らも共に草や水源を探しに行こうとします。
原因わからずともかく必死、という感じでしょうか。しかも5節の彼の言葉を見てみると「馬とらばを生かしておく草が見つかり、家畜を絶やさないですむかもしれない」。何ということでしょう。死に直面していた民のことではなく、自らの家畜、財産の心配をしている(!)。アハブの無慈悲さが際立っているように思います。アハブを代表とするイスラエルは、主との契約を捨て、神の目に悪である状態へと陥っていました。このような状況の中で、エリヤはアハブのもとに遣わされていくのです。
「この地の上に雨を降らせよう」という主のことばをもって。
—そこで一人の興味深い人物が登場します。
2. オバデヤの揺れる心
2.1.オバデヤという人 —主を深く恐れ、アハブに仕える人物
オバデヤという人です。彼はどんな人だったのか。
3節から出てきますが、まずアハブの側近でした。「宮廷長官」という、王の家畜や財産を管理する仕事をしていました。なかなかの高い位です。このサマリアの危機の際してアハブは彼を呼び出しています。生き残るために、草や水を探すために二人で手分けして巡り歩いたという記述から、アハブのオバデヤへの信頼が垣間見えるのではないでしょうか。オバデヤは宮廷長官という立場にあって、その役割にふさわしく忠実に仕事をなしていたのだと思います。その意味で彼は「アハブの忠実なしもべ」と言うことができるのではないでしょうか。
一方で、オバデヤについては3節後半、
“オバデヤ”というのは「主のしもべ」という意味を持つ名前です。事実、その名の通りと言うべきでしょうか。4節を見ると、かつて主の預言者が王妃イゼベルによって殺された時に、彼は100人の主の預言者たちを救い出したとあります。50人ずつ洞穴の中で匿い、パンと水を与えながら彼らを養いました。—サラッと書かれているようにも見えますが、考えてみれば非常にリスクの高いことではないですか。アハブをさらなる悪の道へと引き込んだ妻のイゼベル。
彼女はイラエルの主に対する執拗なまでの怒りと、その預言者たちへの殺意に燃えていました。事実、主の預言者たちを殺したのです。そんなアハブ、そしてイゼベルに近しい立場にいたオバデヤが、あろうことか主の預言者を匿っている。そのようなことが明らかになれば、どうなるかは容易に想像がつきます。彼の命は他の預言者たちのようになる。すなわち、死ぬことになるでしょう。それゆえオバデヤは慎重に行動したはずです。このような危機的状況においても、何とか主の預言者たちが根絶やしにならないように、注意深くこのことを実行したことでしょう。かなりのリスクを背負いながら、まさしくその名のとおり、「主のしもべ」としても生きていたわけです。
2.2.二人の主人
すなわち。オバデヤは、一方で神である主に仕え、他方で王であるアハブに仕えていた。もちろんこの二つを同列に見ていたというわけではないでしょう。主の預言者を匿った事実からも、彼は根本において主を恐れる思いを持った人物と言えると思います。つまり彼は、信仰者でありつつ、異教社会に置かれていた。
現代の私たちも、通ずる部分はないでしょか。オバデヤとアハブほど極端ではなくとも、オバデヤの苦労が理解できる部分があるのではないでしょうか。信仰者として主を礼拝し、キリスト者として生きる。その一方で仕事や学校では、必ずしも主のみこころとは思えない価値観で物事が進んでいく。いや、週に5日・6日働く現実を思えば、むしろこの世の中での時間の方が長いわけです。
その中でキリスト者としていかに生きていくべきだろうか。これは私たちにとって極めて身近な問題です。神様を信じつつこの世で生きていくとはどういうことだろうか。
オバデヤはこの世の主人であるアハブが、主なる神に背き、罪を犯し、偶像礼拝を推し進めていくのを目の前で見てきたことでしょう。彼と妻イゼベルの残忍さを目の当たりにしてきました。明らかに、このアハブのもとで信仰者として仕えていくことは簡単ではなかったはずです。もしかすると、オバデヤ自身も罪に近いところを通らされるような経験もあったかもしれません。具体的なことは想像の域を出ませんが、オバデヤはまさにこのような難しさの中で、絶妙にバランスを取りながら「神である主」と「アハブ」という二人の主人に仕えるよう努めてきました。ですから彼は知恵を用いて、注意深くアハブに仕えてきたことでしょう。彼は今回も、アハブの命に従い、彼と共に水と草を探しに出かけます。アハブは一方の道を、オバデヤは別の道を。
そのような時に。オバデヤの目の前に神の人エリヤが突如として現れることになりました。7節、
いかがでしょうか。これは主を恐れるオバデヤにとって喜ばしいことのはず、ではでしょうか。
ところが、どうやらそうではなかったようです。8節から、
2.3.オバデヤの「恐れ」
オバデヤはこの短い弁明の中で9、12、14節と実に3回も自分の死の危険について言及しています。彼が非常に強く恐れを持っていたことが伺われます。
12節を見ると、アハブに知らせに行っている間に、主の霊が連れ去り、エリヤがいなくなってしまうことを心配しているようです。もしそうなればオバデヤは王に嘘の報告、あるいは無意味な報告をすることになり、自分は殺されてしまうだろう、と。
一見、もっともな話です。しかし、よく考えるとエリヤの側からアハブに会いに、さらに言えば神様がアハブにことばを伝えようとしてるわけです。そのエリヤが居なくなってしまうというのはやや不自然、というよりもオバデヤの過剰な心配にも思えないでしょうか。エリヤ自身がアハブと会うと言っているわけですから。そうであればオバデヤの恐れはこれだけではなく、別なところにもあるのではないか。
もう一つ不思議なことがあります。なぜエリヤは自分でアハブの前に行かず、わざわざオバデヤを遣わそうとしているのか、ということです。最初からエリヤ自身がアハブの前に出ていけば、オバデヤがこれほど恐れ、迷う必要はなかったようにも思います。
これらのことを解く伴が、8節のエリヤの言葉の中にあります。8節、
——実はこの言葉、もともとの言葉では単純に「見よ、エリヤ」と言っているだけなのです。
「見よ、エリヤ」。そしてさらに興味深いことに、エリヤという名前は「私の神は主」という意味です。すると「見よ、私の神は主」。
ある人はこのことを踏まえて次のように言います。
「オバデヤが「エリヤがここにいる」とアハブに告白する時、一見無害なように見えるが、その意味は”見よ、私の神は主である”という告白にもなっている」
つまりエリヤのオバデヤに対する命令は、単にアハブにエリヤの存在を伝えることにとどまらず、オバデヤに信仰の告白を迫るものだったのです。「主のしもべ」という名のオバデヤが、アハブに「見よ、私の神は主である」と伝えにいく。正面衝突です。
オバデヤはこのアハブとの直接対峙を恐れていたのです。もし主の霊がエリヤを連れ去ってしまったら、自分は殺されるだろう。しかし、たとえエリヤが居たとしても、その時、オバデヤにとって真の主人が誰であるかということが明るみに出されてしまう。すなわち、自分の本当の主人はイスラエルの主であって、アハブではないのだ、と。
3. 万軍の主が生きておられる
3.1.オバデヤが問われた二つの選択肢
オバデヤは、エリヤの出現によって突如問われました。あなたは主を選ぶのか。それともアハブを選ぶのか。エリヤとアハブが対峙する時、「二人の主人」に仕えていくための絶妙なバランスが崩れていきます。これは彼にとって恐ろしいことでした。
なぜなら、普通に考えるならその先に待ち受けているのはまさしく「死」であるからです。オバデヤは二つの主人の間で揺れています。エリヤの命令はオバデヤを「心地よいところ」から連れ出し、信仰の決断へと導きます。
オバデヤの恐れに対する、エリヤの言葉は明快です。
必ずアハブの前に出る。
そのように断言します。なぜでしょうか。それは主なる神が命じられたことだからである。神がそうされるのだ、と。
しかも、その神についてエリヤはこう言うのです。「私が仕えている万軍の主は生きておられる」。
神は万軍の主なのである。たとえ目の前にイゼベルの脅威があったとしても。仲間の預言者たちが殺されたという事実があったとしても。あなたが信じ恐れている主は、それらを遥かに凌ぐ力と尊厳をもったお方である。あなたはこの方に信頼するか。この方を主人として告白して一歩を踏み出すか、と。
さて、私たちも、突如、信仰告白を問われることがあります。みことばに迫られる時。人を通して示される時。状況がそのように向かう時。それは予期せぬ時に突然やってきます。
この世とキリスト者としての生き方の中で迷い揺さぶられることがあるでしょう。その時にあなたは主を選ぶのか。
もちろん、聖書はいたずらに王に逆らったり、世を軽視することを勧めているわけではありません。
しかし直接対峙を避けてはならない場面がある。そのように主から導かれる時があります。
その時に「万軍の主は生きておられる」と信じ、その信仰の一歩を踏み出したいと思うのです。
イエス様は山上の説教の中で言われました。
今、私たちは考えたいと思います。自分の中で二人の主人に仕えようとしている事柄は何でしょうか。実は主から問われつつも、絶妙にバランスをとって曖昧にしている領域はないでしょうか。
「私の神は主である」
短く静まりの時を持ちましょう。
祈りましょう。