新しい年に新しい服を着る
コロサイ人への手紙3章8~14節(聖書本文はこちら)
新年には、振袖姿の女性の姿が目につきます。美しく、新しい年をお祝いするのにふさわしい姿です。
私たちがクリスチャンになり、クリスチャンとして生きて行くということは、神様によって今までの人生が全く新しくされ、新しいいのちを頂いて、新しい人生に変えられることです。それは新しい服を着て生きることにたとえられます。
パウロは7節で「以前は」と書いて、クリスチャンになる前の生活、生き様について5節から7節迄に述べ、8節には、「しかし今は」と書いて、クリスチャンになった今は以前とは全く違う新しい生活、生き様になることを述べています。
1.新しい人を着る
それを表す表現が「新しい人を着る」と言うことです。クリスチャンになるということは、新しい人と言う服を着ることだ、というのです。誰でもそうしますが、新しい服を着るには、今まで着ていた古い服を脱がなければなりません。古い服を着たままで新しい服を着ようとしても着ることができません。たとえ着ることができたとしても、新しい服をダブダブに作らなければ着ることはできません。そんなことをしたら、恰好が悪いだけではなく、動くにもうまく動けません。
新年、私たちがクリスチャンとして着るべき新しい服はどんな服でしょうか?
その服のブランドは「新しい人」ブランド、英語で恰好よく”ニューマン・ブランド“と呼んだらよいでしょうか。このニューマン・ブランドの服は神様に選ばれた者が着る服で、聖い服で、神様に愛されている者の服なのです。(12)その服を着ていると、個人生活では、深い慈愛の心を持つ人に変えられて行き、親切な心が出てきます。普段の生活の中でも謙遜な態度が身に付き、柔和な人柄、寛容な振る舞いを持つ人に変えられて行きます。(12)
また、ニューマン・ブランド「新しい人」の服を着ていると、人間関係も変えられます。他のクリスチャンとの交わりで互いに忍耐し合う間柄になり、たとえ不満の思いが出てきた時でも、お互いに赦し合い、受け入れ合うことができるようになります。(13)万が一不満が出てきそうになると、私たちの心にいつも主イエス・キリストの十字架が浮かんできます。「そうだ、主イエス・キリストは私のあんなに汚い罪を赦してくださったのだ、それに比べて今、自分の心に浮かんできた不満なんて比べ物にならないほど小さいじゃないか」と思わされるからです。
クリスチャンになる、クリスチャンとして生きるということはこのようにニューマン・ブランドの「新しい人」という新しい服を着て生きて行くことです。
2.なぜ「新しい人」という服を着ないのか
ところが多くの人がこのニューマン・ブランド「新しい人」という服を着ていないのです。ある人は着ることができないでいます。
なぜでしょうか?
それは先程言いましたように「古い人」という今まで着てきて、慣れ親しんだ服を脱がないからです。ある人は脱ぎたがらないのです。
8節にありますように、「新しい人」と言う服を着るためには、以前に、今まで着ていた古い人と言う服を脱がなければなりません。脱ぐだけではダメで、9節にありますように、脱ぎ「捨てな」ければなりません。
それでは、「古い人」と言う服はどういう服でしょうか?
5節によると、「淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、貪欲、偶像礼拝」と言う5つの特徴を持っている服です。これは私たちの「自己」に深く根ざして残っている物で、なかなか脱ぎにくいのです。これらの古い服をパッと脱ぎ捨てることが大切です。古い服を着ていると、そこから出てくる行いや気持ち、考えは、8節にありますように、「怒り、憤り、悪意、ののしり、恥ずべきことば、嘘を言うこと」です。これらからもはっきりと決別するのです。
古い服を脱ぎ捨てるということは、これらのことを捨て去ることです。それは私たちが主イエス・キリストの十字架を見上げて、十字架にこれらの古い服、自分の肉を情欲や欲望と共に十字架につけることです。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲情と共に十字架につけたのです。」(ガラテヤ5:24)とパウロが言っている通りです。ここで大切な点は、他の人が私たちの肉の思い、情欲や欲情を十字架につけるのではないのです。牧師が、牧野君、それはダメじゃないか。牧野君の情欲を私が十字架につけてあげよう、と言っているのではないのです。自分で自分の古い服を脱ぎ、捨て、自分の肉を十字架につけるのです。肉体を十字架に磔にするのは耐えられないような激しい痛みを伴います。同じように、私たちが自分の肉を十字架に自分で磔にしてつけるというのも、生身をくぎ付けにすることにたとえられますから、激しい痛みが伴います。ですから多くの人、多くのクリスチャンたちも手加減をして、これぐらい十字架につければもう充分じゃないか、と考えて手を緩めます。古い人と言う服を脱ぐのはなかなか難しいことなのです。
3.新しい服を着て変えられ続けて行く人生
古い服を脱ぎました。それからニューブランド「新しい人」と言う服を着るのです。これは不思議な服です。新しい服を着ていると、10節にありますように、「造られた方、創造者である神様のかたちに従って、新しい服を着ている本人が新しく変えられ続けて行くのです。そうして真の知識、即ち、神様のことを知る知識がどんどん増えていくのです。」また、この新しい服は誰が着てもこのように新しくされ続けて変えられて行くものです。その人が日本人であろうと、他のアジア人であろうと、西洋人であろうとアフリカ人であろうとも、人種民族に関係ないのです。未開の人でもギリシャ人のように高い教育を受けた人でも同じなのです。また、職業が奴隷、現在流に言えば外国から来ている一部の技術研修生:借金に縛られて人格を無視されて使われている外国人の低賃金労働者、そういう人であろうと大会社のオーナーであろうと同じなのです。イエス・キリストが新しい服を着たすべての人のうちにおられるのです。「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。(11)ニューマン・ブランド「新しい人」を着た人は誰でも創造者なる神様のかたちにしたがって変えられて行くのです。別のことばで言うと、クリスチャンが霊的に成長していくということです。クリスチャンが聖霊の力によって変えられ、きよめられ続けて行くということです。ですからクリスチャンはだんだん聖くされ、神様の愛を受けて、「深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容」(12)という5つの性質が身についてくるのです。まるでこれらの性質が服を飾っている装飾品のように付いてくるのです。
自分が変えられたかどうかは、自分ではなかなか分かりにくいのですが、他の人が見ると分かるのです。10年ぐらい前にクリスチャンになった人としばらく会うことがなくて久しぶりに会ったりすると、「えっ、この人があの時の人と同じ人?」と思わされるほど神様によって変えられていることが分かることがあります。素晴らしい謙遜の宝石が指にはめられていたり、美しい愛のネックレスをしていたり、清らかな優しい振る舞いと言う飾りが付いているので驚くことがあります。そのような人を見ると、ああ、この人はニューマン・ブランド「新しい人」を着て、聖霊によって少しずつ変えられてきたのだなあ~、と分かり、神様の御名をほめたたえます。
4.結び
イスラエルの人々は、現在の中近東の人々が着ているような長いシーツをかぶったような服を着ています。ここで言われているニューマン・ブランド「新しい人」と言う新しい服も同じようなものでしょう。その長い布でできた服を何枚も重ねて着ているのですが、それが風で巻き上げられたり、バラバラにならないようにベルトをします。「新しい人」と言う新しい服を着た人は服の上に愛と言うベルトを締めるのです。14節を見てください。「これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。」
新しい年、2022年が始まりました。私たちは新年にふさわしく「新しい人」と言うニューブランドの新しい服を着て歩き、生活しましょう。まず古い服を脱ぎ捨て、新しい服を着るのです。そしてその服を神様の愛、アガペーの愛という帯でしっかりと結んで行ってください。すると聖霊なる神様が私たちを創造者のかたちにしたがって、新しく変え続けて行ってくださいます。今年の一年の終わりにきっとお互いに「あら~、あなた変えられたね~」と聖霊によって変えられ、成長させられた姿を互いに喜び、感謝し合うことができるようになりましょう。お祈りしましょう。
互いに偽りを言ってはいけません。
新しい人を着たのです。新しい人は、
そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、
ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、
互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、
そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会