日本福音キリスト教会連合

どのようにクリスチャン生活を始めるか

 
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2022年4月から「上水めぐみキリスト教会」の牧師。 サイクリングやジョギングが趣味。

使徒の働き9章10~25節(聖書本文はこちら

 皆さんは人に嫌われたり、憎まれたり、いじめられた事がありますか?そのいじめっ子や自分を嫌い、反対する人と会わなければならない時には、どんな気持ちになるでしょうか?また何かいじめられるのではないか、嫌なことを言われたり、されたりするのではないか、と心配で不安になるのではないでしょうか?

1.アナニアに神様は語りかけられた

 アナニアは熱心で敬虔なクリスチャンでした。そのアナニアに神様は語りかけられたのです。それも幻の中で個人の名前を呼んで親しく語りかけられたのです。「アナニアよ、立って「まっすぐ」通りに行って、ユダさんの家に泊まっているサウロという人を訪ねなさい」と。これを聞いてアナニアは天地がひっくり返るほど驚きました。「えっ、神様、何でそんなことを言われるのですか?ご存知ないのですか?この人は、エルサレムでイエス様を信じる多くのクリスチャンたちを迫害し、ある人は殺し、ある人は牢獄に入れ、ある人は暴力を振るって傷つけて来た人なのですよ。その上、エルサレムだけでは満足せず、ここダマスコまでやって来て私たちクリスチャンたちを捕まえようとして、祭司長からの許可を得ている人なのですよ。いくらイエス様だってそんな人に会いに行けなんて・・・」しかし、イエス様は言われました。15節、16節を見て下さい。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、私は彼に示します。」信仰深いアナニアでも迫害者サウロに会いに行くのは不安で勇気が要ったことでしょう。しかし、アナニアは主のおことばに従いました。サウロを訪ね、サウロの頭に手を置いて祈ってから、主からのメッセージを伝えました。「するとただちに、サウロの目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった。」のです。明治時代にこれを読んだ日本人は「目から鱗」という表現を日本語にこの聖書のことばから取り入れました。

2.サウロのクリスチャン生活 

 さて、サウロはよみがえられたイエス様に出会って、クリスチャンになりました。サウロはどのようにクリスチャン生活を始めたでしょうか?というより、神様は彼のクリスチャン生活をどのように導かれたでしょうか。

1)悔い改め

まず、彼は目が見えなくされ、三日三晩断食をすることになりました。先回言いましたように、きっと今までの生活、生き方を思い巡らし、数々の自分の犯した罪を悔い改めたことでしょう。信仰生活の原点は、罪の悔い改めとイエスの十字架とよみがえりによる罪の贖いを信じる信仰です。神様の前にへりくだり、自分が罪人であることを認めて、悔い改めることです。

2)祈り

第二は祈りです。主イエスは、アナニアに幻の中でこう言われました。「彼はそこで祈っています」と。サウロの神様への態度は全く変わってしまいました。今まではイエスを信じる者を迫害し、イエスを否定して生きていました。しかし、彼がよみがえられたイエスに出会い、その光に照らされてから、神様への態度は一変しました。彼はまず神様に祈る生活を始めたのです。聖霊によって新しく生まれると、神様は私たちの神様への態度を変えられます。神様に喜ばれることは何か、神様のみこころは何かを祈り求める生活が始まります。ある意味でこれがある人が本当に生まれ変わったクリスチャンなのかどうか知る「しるし」です。クリスチャンだと言っているけれども、祈らない、祈っても通り一遍の形式的な祈りだけしかしない人、クリスチャンでない人と同じように世間の価値があると言うことに関心はあっても、神様の事、人々の救いには関心がないと言う人がいます。心が神様に向かっていないのです。

3)交わり

他のクリスチャンとの交わり(教会)を喜びます。アナニアはきっとサウロの所に行きたくなかったでしょう、ですからいろいろと言い訳をしました。しかし、主は、15節にありますように、「行きなさい。Go!」と命令されました。クリスチャンは神様の命令に従って生きるのです。その神様の命令は、クリスチャンになったサウロと会う、交わること、神様のメッセージを伝えることでした。今まで教会を迫害し、クリスチャンに暴力をふるい、迫害してきたサウロと会い、交わることがクリスチャン生活の始めです。アナニアは主の命令に従ってサウロの許に行って何と言いましたか?17節を見て下さい。「兄弟サウロ」と呼びかけたのです。何と素晴らしいことばでしょうか。サウロを主にある兄弟として受け入れているのです。同じ神様の家族の一員として受け入れて、兄弟姉妹として主にある愛のうちに温かい交わりをしようとしているのです。「彼はバプテスマを受け」、「弟子たちとともにいた」(18)とあります。クリスチャン生活はこのような主にある教会の交わりから始まるのです。教会に行っても他の人と交わらない、礼拝が終わったらすぐ帰ってしまう、信仰の証しもしない、祈り合わない、この世の交わりと同じで、世間話や噂話ばかりしていて、主にあるきよい交わりをしないのではクリスチャン生活は始りません。

4)あかし

自分の信仰の証しをする。20節によると、サウロは「ただちに」ダマスコにあるユダヤ教の会堂で伝道しました。「この方、よみがえられたイエスこそ神の子です」と。それを聞いた人々は信じられないほどびっくりしました。「エツ、この人クリスチャンになったの?クリスチャンを迫害していた人じゃないの?」と。しかしサウロはそんなことは構わず伝道しました。「サウロはますます力を増し、イエスがキリスト(救い主)であることを証明してダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。」(22)この「うろたえさせた」と訳されていることばは、「面喰わした」「当惑させた」とも訳せます。これは聖霊の働きです。17節を見て下さい、アナニアがサウロに手を置いて祈った時に、言いました。「あなたが聖霊に満たされるためです」と。サウロは聖霊に満たされて自分がよみがえられたイエスと出会ったこと、その主イエスは神の子、私たちの罪からの救い主であることを宣べ伝えたのです。同じように、クリスチャン生活は自分がイエス様と出会った経験を他の人に証しすることから始まるのです。聖霊によって自分の救いの喜びを証ししないクリスチャンなんてどこかおかしいのです。

5)聖書を読み、学ぶ

クリスチャン生活は神様と個人的に交わり、神様を深く知ることを求めることから始まります。23節に「かなりの日数がたち」とあります。この「かなりの日数」とはガラテヤ1:17~18によると、3年間です。この間、サウロはアラビヤで神様の前に一人になり静まり、学びの時を持った、と多くの聖書学者たちは考えています。私たちもクリスチャン生活で欠くことのできないことは神様の前に出て静まる時を持つことと、聖書を読み、学ぶことを通して神様を深く知るようになることです。ある人は、聖書同盟の「みことばの光」を使っておられます。また、ある方は聖書通読をされている方がいます。また、ある方は聖書研究の手引きを使って聖書を組織的に学んでおられます。また、ある方はアシュラムのような聖書のことばを読み、そのみことばを思い巡らして静まりの時を持っておられる方もおられます。いずれもすばらしいことです。何年もクリスチャンだと言うけれども聖書を知らない人、聖書の教えに従わない人は、クリスチャン生活を正しく始めていない人です。

6)神様の召しを知る

私たちは皆、神様に召され、選ばれてクリスチャンになりました。サウロは13節に書いてありますように、「あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。」同じように、神様は私たちを選んで導き、信仰を与え、クリスチャンにして下さったのです。よく、謙遜して、でしょうか、「私なんて小さな者でいなくてもよいような者です」という人がいます。これは間違いです。神様は私たち一人一人を愛し、必要とされているのです。神様のお働きのために召して下さったのです。私たちはどのような神様のお働きのために召されたかを知ることが大切です。クリスチャンとして生きて行くなかで私たちに対する神様の導きをいつも祈り求めて行くことが大切です。神様は私たち一人一人を通して神様の御業を成してご栄光を現わそうとされています。若い人でも歳をとった人でも、男でも女でも関係はありません。神様が入用だから、私たちを召して下さったのです。私たちは神様の子供として、神様を認めない世の中でキリストの証人として生きて行きます。サウロは異邦人の間で、王たちに証しする者として、イスラエルの子らの間で証しして生きました。その人生は、16節に書いてありますように、「イエス様の名前のために苦しむ人生」で、最後はローマで殉教の死を遂げました。私たちがクリスチャンとして生きるようになると、同じようにイエス様のために苦しめられます。サウロ、後のパウロはテモテへの手紙第二3:12で「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」と教えています。また、イエス様はヨハネの福音書17:16、18で「わたしがこの世のものでないように、彼ら(クリスチャンたち)もこの世のものではありません。・・あなた(父なる神様)がわたしを世に遣わされたように、わたしも彼ら(クリスチャンたち)を世に遣わしました。」

クリスチャンたちはこの世に生きていますが、この世のものではないのです。私たちはこの世で「世の光」として、「地の塩」として生きて行くのです。

サウロはダマスコにいるユダヤ人たちに殺されそうになりました。そこでクリスチャンたちは彼を密かにダマスコから脱出させました。

3.結び

 私たちもよみがえりの主イエスに出会って、信仰によってクリスチャンに導かれました。

クリスチャン生活をどのように始めたらよいでしょうか?

神様の前にへりくだり、自分の罪を悔い改めることです。真の神様への態度を変えて、祈ることからクリスチャン生活を始めましょう。きちんとした教会生活をして、一つ一つのことを聖書の教えに従って考え、判断し、主にある兄弟姉妹との交わりを深めましょう。更に、神様に選ばれ、愛され、召されてクリスチャンになったのですから、その召しにふさわしくキリストの証人として生きて行きましょう。また、神様の前に静まり、聖書のみことばを学び、更に深く神様を知り、神様と深く、親しく交わって行こうではないですか。私たちがこの世に生きている時には信仰のゆえに受ける苦しみがあります。しかし、ピリピ人への手紙2:16にありますように、主の器として、「非難されることのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子ども(であることを示し、)いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝」いていきましょう。お祈りしましょう。

使徒の働き9章10~25節

 さて、ダマスコにアナニアという名の弟子がいた。主が幻の中で「アナニアよ」と言われたので、彼は「主よ、ここにおります」と答えた。
すると、主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』と呼ばれる通りに行き、ユダの家にいるサウロという名のタルソ人を訪ねなさい。彼はそこで祈っています。
彼は幻の中で、アナニアという名の人が入って来て、自分の上に手を置き、再び見えるようにしてくれるのを見たのです。」
しかし、アナニアは答えた。「主よ。私は多くの人たちから、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。
彼はここでも、あなたの名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから与えられています。」
しかし、主はアナニアに言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。
彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。」
そこでアナニアは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中であなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」
するとただちに、サウロの目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった。そこで、彼は立ち上がってバプテスマを受け、
食事をして元気になった。
 サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいて、
ただちに諸会堂で、「この方こそ神の子です」とイエスのことを宣べ伝え始めた。
これを聞いた人々はみな驚いて言った。「この人はエルサレムで、この名を呼ぶ人たちを滅ぼした者ではないか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためではなかったか。」
しかし、サウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。
 かなりの日数がたち、ユダヤ人たちはサウロを殺す相談をしたが、
彼らの陰謀はサウロの知るところとなった。彼らはサウロを殺そうと、昼も夜も町の門を見張っていた。
そこで、彼の弟子たちは夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁伝いにつり降ろした。聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 
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