日本福音キリスト教会連合

よみがえりのイエスとの出会い

 
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2022年4月から「上水めぐみキリスト教会」の牧師。 サイクリングやジョギングが趣味。

使徒の働き9章1~9節(聖書本文はこちら)

1.パウロ(サウロ)の回心

「使徒の働き」の一つのクライマックスにやってきました。サウロの回心です。サウロという人の名前は、これまでに2回出てきました。7:58にステパノに石を投げつけた人々の証人たちは、彼らの上着をサウロの足元に置きました。サウロはステパノの殉教に賛成し、支持していました。そのことが、8章1節に

「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。」
と記されていました。そのサウロは、クリスチャンたちの迫害に野獣のように息を荒らげて、エルサレムからダマスコに逃げて行ったクリスチャンたちを追いかけて行きました。捕えてエルサレムに連れて来て処罰するためです。ところが、彼がダマスコの町の近くにまで来た時のことです。突然、天からまばゆい光が彼を照らしたのです。彼はその光を受けてその場に倒れ、打ちのめされてしまいました。地に伏せていますと、サウロに語りかける声が聞こえてきました。
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」
と。その声を聞いてサウロはすぐに「主よ、あなたはどなたですか?」と問いかけると、
「わたしはあなたが迫害しているイエスである」
と答えが返ってきました。よみがえられたイエス様がサウロに現れたのです。イエス様はサウロにことばをもって語られたのです。

よみがえられたイエス様は、続けてこう言われました。「立ちあがりなさい。ダマスコの町の中に入って行きなさい。そうすればあなたがしなければならないことが告げられます」と。そこでサウロは地面から立ち上がりましたが、気がついたことは目が見えなくなっていることです。そこで一緒に来た者たちに助けてもらい、ダマスコの町に入って行き、宿屋に泊りましたが、三日間飲み食いが出来なかったのです。一緒にいた人たちは、声のような物音は聞こえましたが、何も見えなかったので何が起こったのかは分からず、サウロに言われるまま彼の手を引いてダマスコに来たのです。

2.よみがえられたイエスとの出会い

よみがえられたイエス様はこのようにしてクリスチャンを激しく迫害し、その信仰に反対しているサウロに出会われました。サウロは今までクリスチャンたちの信仰の証しを聞き、それに大反対してきました。クリスチャンの信仰は、彼が幼い時から教えられ、従って来たユダヤ教の教えに反対するものであったのです。クリスチャンたちはイエスが旧約聖書で預言されているメシア、救世主であると信じ、そのことを人々に宣べ伝えています。それはサウロにとっては、神様を冒涜することでした。イエスを神として信じ、礼拝することは偶像礼拝でした。ですからステパノが石打ち刑に処せられる時、彼はそれに賛成したのです。サウロは旧約聖書の教えを良く知っていましたが、十字架にかかり、私たちすべての人の罪の贖いとなって死んだイエスを、そしてその死から三日目によみがえられて今も生きておられるイエスを知りませんでした。よみがえられたイエスにお会いしていなかったのです。そのように律法の教えに縛られていたサウロによみがえられたイエスが現れたのです。サウロはよみがえられたイエスと出会ったのです。

クリスチャンになることで一番大切で欠くことのできないことは、この「よみがえられたイエスとの出会い」です。それもここでサウロが経験しましたようによみがえられたイエスと個人的に出会うことです。周りにいた同行者は倒れませんでした。音を聞きましたが、それがイエスの声だとは分かりませんでした。

多くの日本人がイエス・キリストのことについてある程度の知識を持っています。また、自分の家の宗教はキリスト教だ、何代目のクリスチャンだ、という人も少なくありません。自分はクリスチャンだと言い、教会に属している人も少なくありません。しかし、サウロのように個人的によみがえられたイエスに出会ってクリスチャンとして生きている人はそんなに多くありません。サウロのようによみがえられたイエスに出会う、ということは、何も道路上で天からの光を浴びて道路上に倒れて、イエス様の声を聞いた、ということではありません。このような特殊な経験を通してイエス様が私たちと出会われることはほとんどありません。

3.パウロの経験は、私たちの「先例」

では、サウロの経験は私たちとどんな関係があるのでしょうか?テモテへの手紙第一1章16節を見て下さい。ここでパウロは、15節で

自分は罪人のかしらである
、と言ってから、
「しかし私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私(罪人のかしらである)を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。」
と書いています。サウロの経験はその後にクリスチャンになる私たちの「先例」だというのです。

サウロがよみがえられたイエスと個人的に出会ったということは、どういう意味で私たちの「先例」となっているのでしょうか?

  • それはまず神様の光に照らされ、光の中に入れられると言う点です。どうしたら神様の光の中に入れられ、照らされるのでしょうか?それは聖書のみことばによってです。コリント人への手紙第二4章6節に
    「『闇の中から光が輝き出よ』と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。」
    とありますように、私たちが聖書のみことばを通して主イエス・キリストが私たちの罪のために十字架に架かり、私たちの罪を贖って下さったことを信じ、また、イエス・キリストが死に打ち勝って三日目によみがえり、今も生きて働いておられることを信じ受け入れる時に、天地万物を創造された時に「光、あれ」と言われて光を創造された創造主なる神様は、私たちの心の中に光を創造して下さり、心を照らして下さるのです。
  • よみがえられたイエスはサウロに「立ちあがって町に入りなさい。そうすればあなたがしなければならないことが告げられる」と命じました。同じように、私たちも聖書のみことばを通してイエスを自分の罪からの救い主と信じた時に、みことばを信じる信仰によって立ち上がると言う点で「先例」なのです。みことばに従って生きることです。行動することの「先例」です。知識を持っていてもそれを実行しない、従わないのではよみがえられたイエスに出会うことはできません。みことばに従って立ち上がることです。みことばに従ってあなたの行くべき所、あなたのダマスコに入って行くことです。自分はクリスチャンだと言っている人でよみがえられたイエス様に出会っていない人がなぜいるのでしょうか?6節の「そうすれば」ということばが大切です。立ちあがって、ダマスコの町に入る。そうすればあなたがしなければならないことが告げられるのです。信仰をもって立ち上がり行動しなければ,よみがえられたイエスに出会えません。
  • サウロは同行者たちに助けられ、また、10節以下の所に書かれているアナニアという人の助けを得て、これからクリスチャンとしてしなければならないことを神様から告げられ、知ります。同じように、私たちもよみがえられたイエスに出会い、そのみことばの教えに従って行く時に神様を信じている信仰の兄弟姉妹などの助けによってクリスチャンとして歩みを進め、よみがえられたイエスとの交わりを深めて行きます。つまり、クリスチャンたちは教会に集い、互いにみことばを学び、祈り合い、みことばに従い、交わりをして互いに励まし合って行くのです。

このように私たちはサウロのような特別な経験を通してよみがえられたイエス様に出会うのではなく、聖書のみことばを聞き、理解し、聖霊の働きによってそれを信じ受け入れて聖霊によって心のうちに光を与えられて、みことばに従い、立ち上がり行動することを通して、よみがえられたイエスに個人的に出会います。

4.私たちは、キリストのからだの「一部分」である。

4節を見て下さい。よみがえられたイエス様は「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」とサウロに問いかけられました。サウロはダマスコにイエスを見るために行こうとしていたのではありません。クリスチャンたちを捕まえて、エルサレムに連れて来て処罰するためにダマスコに向かっていました。なぜよみがえられたイエスはこのように言われたのでしょうか?

クリスチャンたちを迫害することは、主イエス・キリストを迫害することなのです。ですから5節でイエスは「わたしはあなたが迫害しているイエスである」とサウロに返事しました。ここから分かることは、私たちクリスチャン一人一人はイエス・キリストのからだの部分であり、キリストのからだに繋がれているものなのだ、ということです。

コリント人への手紙第一12章27節に

「あなたがたはキリストのからだの部分であって、一人一人はその部分です。」
とあり、その前の26節には
「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、全ての部分がともに喜ぶのです。」
とありますことから分かりますように、私たちの苦しみは全世界のクリスチャンたちがシェアする,分かち合う苦しみであり、主イエス・キリストの苦しみでもあり、私たちの喜びは、全世界のクリスチャンたちの喜びであり、主イエス・キリストの喜びでもあるのです。サウロはユダヤ人のことしか考えていなかった人でしたが、ここでクリスチャンを迫害し、殺害してきたということは、よみがえられたイエスを迫害し、苦しめていたのだ、ということを知らしめられたのです。

私たちも同じです。自分のことしか考えなかった生き方からキリストのからだの部分になった自分としての生き方に変えられるのがクリスチャンになると言うことです。自分のことや自分の教会のことだけではなく、アジアの教会で起こっていること、アフリカの教会、全世界の教会で起こっていることに関心を抱き、祈って行く生活がクリスチャン生活です。世の中では人種差別や様々な差別がされていますが、私たちクリスチャンは、中国人であろうと、韓国人であろうと、ヴェトナム人であろうとアフリカからのガーナ人であろうと、金持ちも貧しい人もクリスチャンたちは皆キリストのからだに繋がれて、その部分になっている神様にある兄弟姉妹であり、互いに助け合い、調和して行く部分なのです。

と同時に、私はこんなことを考えます。クリスチャンとして他の人から差別されたり、いやがらせされたり、ある時は暴力を振るわれる時があります。その時、よみがえられたイエス様も私と一緒に迫害されているのだ、きっとイエス様は迫害する者のために祈っておられるだろうと。この理解に立って、信仰に反対する人々に対応すると、イエス様だったらどのような態度でこの人たちに向かわれるのだろうか、と考えされ、自分の態度を、また、思いを改めさせられます。このようによみがえられたイエス様がいつも私たちとともにいて下さり、聖霊の働きによってイエス様のからだの一つの部分としての役割を果たして、聖霊の実を結ぶ生活をし、主のご栄光を現わして行こうではないですか。

5.むすび

最後に、もし皆さんがサウロのように、突然失明して、何も見えなくなり、それから三日三晩食べられなくなったら、その間にどんなことを考え、思い巡らしますか?

これは聖書のみことばに書かれていませんから、私の想像に過ぎませんが、サウロは主イエスのご栄光の光を見た経験を思っていたことでしょう。更に、それまで多くのクリスチャンたちを捕まえ、迫害し、殺してきたことを思ったことでしょう。「そうか、自分は正しいと思って行ってきたが、今まで自分は神様を、主イエスを迫害し苦しめて来たのだ。主よ、私の罪をお赦しください。」と自分の罪を悔い改める時を持ったのではないでしょうか。私たちも同じではないでしょうか?よみがえりの主に出会った時のことを忘れてはなりません。クリスチャン生活の中でその時のことを思い出し、罪を悔い改めるのです。丁度、旧約の民に神様が繰り返し、「出エジプト」の経験を思いださせたように。主の前に静まり、よみがえりのイエスに出会った、という信仰の原点に立ち返って更に信仰の高嶺を目指して行きましょう。お祈りしましょう。

使徒の働き 9章1~9節

さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻き、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂宛ての手紙を求めた。それは、この道の者であれば男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」
彼が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる。」
同行していた人たちは、声は聞こえてもだれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
サウロは地面から立ち上がった。しかし、目を開けていたものの、何も見えなかった。それで人々は彼の手を引いて、ダマスコに連れて行った。
彼は三日間、目が見えず、食べることも飲むこともしなかった。                                    聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

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