日本福音キリスト教会連合

教会が成長するために

 
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2022年4月から「上水めぐみキリスト教会」の牧師。 サイクリングやジョギングが趣味。

使徒の働き5:11~26

そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。
 さて、使徒たちの手により、多くのしるしと不思議が人々の間で行われた。皆は心を一つにしてソロモンの回廊にいた。ほかの人たちはだれもあえて彼らの仲間に加わろうとはしなかったが、民は彼らを尊敬していた。そして、主を信じる者たちはますます増え、男も女も大勢になった。
そしてついには、病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせて、ペテロが通りかかるときには、せめてその影だけでも、病人のだれかにかかるようにするほどになった。また、エルサレム付近の町々から大勢の人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人々を連れて集まって来た。その人々はみな癒やされた。
 そこで、大祭司とその仲間たち、すなわちサドカイ派の者たちはみな、ねたみに燃えて立ち上がり、使徒たちに手をかけて捕らえ、彼らを公の留置場に入れた。
ところが、夜、主の使いが牢の戸を開け、彼らを連れ出し、「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばをすべて語りなさい」と言った。
彼らはこれを聞くと、夜明けごろ宮に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間たちは集まって、最高法院、すなわちイスラエルの子らの全長老会を召集し、使徒たちを引き出して来させるために、人を牢獄に遣わした。ところが、下役たちが行ってみると、牢の中に彼らはいなかった。それで引き返して、こう報告した。「牢獄は完全に鍵がかかっていて、番人たちが戸口に立っていました。しかし、開けてみると、中にはだれもいませんでした。」
宮の守衛長や祭司長たちは、このことばを聞くと、いったいどうなることかと、使徒たちのことで当惑した。
そこへ、ある人がやって来て、「ご覧ください。あなたがたが牢に入れた者たちが、宮の中に立って人々を教えています」と告げた。
そこで、宮の守衛長は下役たちと一緒に出て行き、使徒たちを連れて来たが、手荒なことはしなかった。人々に石で打たれるのを恐れたのである。
聖書 新改訳2017

先回神様によってアナニアとサッピラがさばかれて死んだという箇所からお話ししました。このことを見聞きしたすべてのクリスチャンたちには大きな恐れが生じました。(11)今年の目標聖句「主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった。」は「主を恐れ」ということばから始まっています。私たちは日々の生活の中で「主を恐れること」を忘れてはいけません。神様は聖いお方です。罪を嫌い、憎まれるお方です。このことを神様は私たちに教えるために旧約聖書で繰り返してイスラエルの民の罪を罰しました。イスラエルの民は荒野で「食べるものがない」「水がない」と神様に不平不満を言って罪を犯して罰せられました。神様ではないものを偶像として作り、それを拝んで罪を犯し、多くの人がいのちを落としました。イスラエルの民を罰するために神様が用いられた方法にはいろいろありますが、代表的な方法は、戦争に負けること、飢饉、いなご、疫病などがあります。

時が満ちて神様は救い主イエス・キリストを私たちのために遣わしてくださいました。そしてイエス様の十字架の死とよみがえりによって私たちの罪を贖ってくださいました。ですから今は神様は旧約聖書の時のように私たちの罪を罰するのではなく、私たちに自分の罪を悔い改めて主イエス・キリストの十字架とよみがえりによる救いを信じること、主イエスに立ち返ることを教えておられます。イスカリオテのユダもアナニアもサッピラも悔い改めませんでした。そして神様に裁かれてしまいました。私たちも気をつけて信仰生活を送って行きましょう。ヘブル書は繰り返して「もし御声を聞くなら、あなたがたは心を頑なにしてはならない」(3:7,15,4:7)と罪を神様の前に告白し、悔い改めるように警告しています。私たち日本人は天地万物を創造した唯一の創造主なる神様を知らないで、また、教えられないで育ってきました。ですから、偉大な創造主である神様を恐れるということがよくわからずに、神ではないほかの宗教が祭っている神々を安易な気持ちで拝んだりしてしまいます。習慣として、軽い気持ちで、何も考えずに神社で拝んだり、仏壇の前で拝んで線香をあげたり、お稲荷さんやお地蔵さんを拝んだりしたりします。ある人は教会堂で十字架を拝んだり、マリア像を拝んだりしています。これらは唯一の真の神様が嫌われ、怒られる偶像礼拝です。私が最近気になり、嫌な思いをしているのは、多くの人が神様という言葉を軽く使うことです。「神ってる」などという流行語を作ったりしています。私たちクリスチャンは真の偉大な唯一の神様を信じて、その神様に従っているものとして日々「神様を恐れて生きていくこと」が大切です。十戒には、偶像礼拝を禁止しているだけではなく、「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。」とあるとおりです。 主を恐れて生きていた使徒たちとクリスチャンたちは、つまり教会は「皆は心を一つにして」(12)いました。「心を一つにする」ということばは、1:14に、2:46にも出てきました。4:32には「人々は心と思いを一つにして」とあります。イエス様は十字架につけられる前に「わたしたち(父と子)が一つであるように、彼ら(クリスチャンたち)も一つになるためです。」(ヨハネ17:22)と祈られました。クリスチャンたち、教会のあるべき姿は、主イエス・キリストにあって一つとなることです。

このようなクリスチャンたちの姿を見て、大祭司とその仲間たちとサドカイ人、13節で「ほかの人たち」と書かれている人たちはクリスチャンたちの仲間にはなろうとせず、むしろねたみをもった(17)のですが、エルサレムのソロモンの回廊いた人々は彼らを尊敬していました。(13)弟子たちは周りの人々に良い証になっていました。

14節を一緒に読んでみましょう。「そして主を信じる者たちはますます増え、男も女も大勢になった。」

そうです。反対する人たちもいましたが、伝道が進み、教会に加わる人がどんどん増えたのです。何がそのきっかけになったのでしょうか?

1.クリスチャンたちの生き様が良い証になり人々に尊敬されていたのです。(13)

2.聖霊なる神様は使徒たちを用いて多くのしるしと不思議を人々の間で行われた。(12,15,16)
3.彼らがいのちのことば(福音)を語った。(20,25)

私たちももっと多くの日本人が日本にいる人々が教会に来て主イエス・キリストを信じるようになることを願っています。上水めぐみキリスト教会にもっと多くの人々がこの地域から集まってくることを願い祈っています。

この初代のクリスチャンたちの経験から私たちは何を学べるでしょうか。

1.私たちが神様によって導かれ、私たちの生活を通してクリスチャンではない人々に良い証ができるようになることです。

それには神様に祈ることです。私たちが聖書の教えに従って生きる、生活することができるように神様が力と知恵を与えてくださるように祈ることです。

イエス様はマタイの福音書28:20に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」と約束しておられます。ということは、私たちクリスチャンが家にいる時も、買い物をしている時も、仕事をしている時も、友達と話をしている時も、食事をしている時も、「いつも」イエス様は私たちとともにおられるのです。ですからイエス様に聞かれたら困るようなこと、イエス様に見られたら困ることはしませんし、イエスさまと一緒では行けない所には行かないのです。毎日の生活の中で、もしイエス様がここにいらっしゃったら、どのようにされるかな、どんなことば言われるかな、と考え、想像してみることです。どうしたらよいかわからないような難しいことや状況に直面した時は特に「神様、知恵を与えてください。私はどうしたらよいのでしょうか?」と祈るのです。神様から知恵を頂く、ということが大切です。私たちには多くの能力が与えられています。しかし、しばしばその能力を正しく、適切に使う知恵に欠けています。このようにイエス様に尋ね、助けを求めながら生活していくと、祈って考えてから決めて行動するようになりますから、早とちりをしなくなります。もうちょっと待てばよかった、という失敗も少なくなるでしょう。

もう一つ大切なことは自分と生活を共にする人々のために祈り続けることです。つまり家族の救いのために祈ることです。私は教会の人皆で今年度この「アンデレカード」を使って皆で互いに私たちの家族や親しい友人が救われるように祈り続けたいと思っています。家族や未信の友人知人の名前を書いて、毎日祈ったかどうかをチェックしていくのです。同じことを書いてある半分を教会に残し、教会の祈祷会で祈って行くのです。もし、現在教会に来ている人々の家族や親しい友人が教会の礼拝に来るようになると、もしかしたらこの教会堂に入りきれなくなるかもしれません。えっ、そんなことありえない、と思うかもしれません。しかし神様には不可能なことはありません。私が以前牧師として奉仕していた教会は礼拝する部屋は2階の八畳間二つ合わせた所でした。初めは17名しかいませんでしたから十分に入ることができましたが、そのうち神様が新しい人々を導いてくださいましたから一杯になってしまいました。そこで廊下に椅子を並べました。それでも足らなくなって、2階から1階への階段に座ってもらいました。東京の四谷にある教会でしたから、私は「これで本当の四谷階段教会になった。」と冗談を言っていました。そのうち階段も一杯になりましたので、2階から3階の私たちの住居に行く階段に座ってもらいました。50名以上になってからは、さすがに入りきれないので礼拝を2回に分けることにしました。神様はこのように私たちの思いを超えて御業をなしてくださいます。

2.聖霊なる神様のお働きに期待し、委ねることです。

あるクリスチャンたちは12節に書かれているように「多くのしるしと不思議」を行うことを目指します。また、奇跡を売り物にして人々を集めようとする「キリスト教の名前を使うグループ」があります。しかし、聖書はここにはっきりと書いていますように、神様は特別に選ばれた「使徒たち」を用いてこのようなしるしと不思議を行われたのです。私たちは使徒ではありませんから、そのようなしるしと不思議を求め、行うことはできません。確かに、神様が必要と思われる状況で神様は特別な「しるしと不思議」を行われます。たとえば、18節以下に書かれていますように、神様は主の使いを用いてクリスチャンたちを迫害から守ったり、救いだしたりされることがあります。しかし、今は、私たちの手元に聖書があり、聖書を通して私たちは神様のみこころを知ることができるのです。

3.私たちがいのちのことば(福音)を宣べ伝えることです。

教会の働きの進展も信者が増えることも聖霊の働きによります。かっこいいヴィジュアル系の牧師や伝道者に多くの人がひきつけられる、ということはあるかもしれません。しかし、それは教会の進展ではなく、本当に福音を信じる人が起こされるということではありません。14節に「主を信じる者たちはますます増え」た、とあります。聖霊の働きによらなければ「主を信じる」者は起こされません。主を信じるためには、福音、いのちのことばを聞くことが必要です。使徒たち、信者になった者たちはいのちのことばを大胆に宣べ伝えたのです。最近は教会に人を集めるためにいろいろなイベントをする教会が多くなりました。それも良いですが、欠かせないもっとも大切なことは福音を語り伝えることです。私たち人間の罪、その罪の贖いのために十字架上で身代わりの死を遂げたイエス・キリスト、三日目によみがえられ、今も生きて働いておられるお方を自分の罪からの救い主と信じる時に聖霊は私たちを新しく生まれさせ、新しいいのちを与えてくださいます。このことばを宣べ伝えなければ、教会は成長しません。

4.人々の必要に応えていくことです。

この個所には何回も「しるしと不思議」「病人の癒し」「汚れた霊からの解放」のことが書かれています。先ほども言いましたように私たちは使徒ではありませんから同じことをするように、ということではありません。そうではなく、病気や悪霊や貧困や家庭内の争いなど、社会の不義や不公平など私たちが社会の中で直面する様々な必要にクリスチャンたちが応えていくことを教えています。私たちが地域の人々のために祈り、接していく時に様々な問題があることに気がつくようになります。クリスチャンたちは、教会は、そのような必要のために祈り、応えていくのです。

このように、私たちが生き様を通して証し、聖霊の働きに委ねて、いのちのことば(福音)を語り、周りの人々の必要に応えていくならば、「主を信じる者たちはますます増え、男も女も大勢にな」(14)るでしょう。聖霊が私たち一人一人を励まし、この教会が聖霊によって前進し続け、多くの人々が主の救いに与かることになるように祈り、伝道していきましょう。お祈りしましょう。

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