流れのほとり ⑥ (By a Stream of Water)
10月に入りました。急に気温が下がり、秋らしくなってきました。玉川上水の流れのほとりも少しずつ秋のモードになってきました。秋の虫の鳴き声が日に日に大きくなり、あたかも交響楽団の演奏がピアニシモからフォルテへと強め、鳴き声の種類もソロから三重奏、四重奏と増えて来ました。散歩の足の裏をどんぐりが不規則なマッサージをしてくれます。小枝に付いた袴付きの可愛い大小の木の実に思わず手を延ばします。雨が降れば一斉にきのこが顔を出します。
<栗>
私は10月生まれです。子供の時から誕生日のご馳走はいつも栗ご飯でした。そんなことで栗が大好きです。天津甘栗は食べ始めると止められません。しかし、何と言っても採りたての大きな栗そのものをふかして食べるのが一番美味しいのではないでしょうか。栗ようかん、栗まんじゅう、モンブラン、マロングラッセと栗のお菓子は和洋両方にきりがないほどたくさんあります。栗は世界中の人に愛されているようです。
ダジャレの好きな私は、「くり」の付いたことばでも遊んでいます。私たちが良く使う「くり」は、「びっくり」「がっくり」「ぎっくり」「ざっくり」等があり、中年になってくると「ぎっくり」腰に気を付け、家計を預かる主婦は「やりくり」に頭を悩ませるかもしれません。
<クリスチャン>
私にとっては、やはり「くり」と言えばクリスチャンです。クリスチャンとはキリストを信じている人、基督教徒のことです。この「くり」はキリストから来ています。
聖書には、アンティオキアと言う都市(現在はトルコ共和国の一都市)でキリストを信じる人々のことを初めてクリスチャンと呼ぶようになった、と記されています。
これはクリスチャンたちが「キリストが、キリストが」と繰り返してキリストのことを話すので、彼らをバカ呼ばわりする蔑称として使われたそうです。日本風に言うならば「キリスト・バカ」になるかもしれません。しかし、その中クリスチャンの数が増えましたので、キリスト信者のことをクリスチャンと普通に呼ぶことが定着したようです。
最近では「クリスチャン」、と言うことば、呼称はいろいろな意味で使われているようです。
「彼はクリスチャンだ。」と聞いたら、あなたはどういう人を思い浮かべますか?
教会に行っている人、洗礼を受けている人、家がキリスト教の人、十字架の首飾りを付けている人、真面目な人、何かに付けて十字を切ってお祈りする人など。私の大学時代に物理学の教授に「クリスチャン」と言うあだ名がついている先生がおられました。私は最初その先生が本当にクリスチャンなのか、と思いましたがそうではありません。いつも授業の時に両手を胸の前で祈るような形で組んで話されるからこのあだ名が付けられたのだそうです。
<聖書の教えるクリスチャン>
聖書はどのように教えているのでしょうか?
聖書が教えている「クリスチャン」とは、「キリストのうちにある人」です。
神様によって「新しく造られた人」です。つまり神様の力によって新しく創造され、新しいいのちを与えられ、いつもキリストの中にいてキリストと親しく交わっている人です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくされた人です。
あなたもこのようなクリスチャンになってください。