日本福音キリスト教会連合

キリスト中心に生きる

 
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2022年4月から「上水めぐみキリスト教会」の牧師。 サイクリングやジョギングが趣味。

使徒の働き3:11~16

この人がペテロとヨハネにつきまとっているうちに、非常に驚いた人々がみな、「ソロモンの回廊」と呼ばれる場所にいた彼らのところに、一斉に駆け寄って来た。
これを見たペテロは、人々に向かって言った。「イスラエルの皆さん、どうしてこのことに驚いているのですか。どうして、私たちが自分の力や敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。
アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたはこの方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。
あなたがたは、この聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、
いのちの君を殺したのです。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。
このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。
聖書 新改訳2017
ペテロとヨハネは「美しの門」で物乞いの人に出会いました。ペテロは物乞いをした人に、「金銀は私にはない。私にあるものをあげよう。ナザレのイエスの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と言って彼の右手を取って立たせたのです。

これだけでも驚くべき奇蹟ですが、もっと衝撃的だったことは、足がよくなった人が歩くだけではなく、立って飛び跳ね、神様を賛美してペテロとヨハネと一緒に宮の中に入って来たことです。このことを見、知った人々は驚いて、言葉も出なくなり、ポカーンと口を開けて立っていました。暫くすると、この「非常に驚いた人々」がペテロとヨハネとその人、3人の所にダアー、と駆け寄ってきました。これを見てペテロはその集まって来た人々に話しました。ペテロは聖霊に満たされていたのでしょう。2:14以下の所に書かれているのと同じように、彼らに向かって話し始めました。

聖霊は私たちを励まし、ペテロのように証しするように導いてくださいます。それは人々が神様の素晴らしい御業を見た時です。例えば、私の友達は、定年になったら急に不安になったのでしょうか?これからの人生のことや心に関すること、霊的なことに関心が増して来ました。特にクラスメイトの一人が急に肺がんで亡くなり、亡くなる前にクリスチャンになった、と聞いたら、急にキリスト教の事に関心を持つようになりました。数カ月後に彼を偲ぶ会をすることになりました。大手町の居酒屋さんで集まることになったのです。ところが幹事の人から「牧野、今度は彼を偲ぶ会として行うし、彼は亡くなる前に洗礼を受けてクリスチャンになったので、偲ぶ会の初めの20分は牧野にキリスト教の式をしてもらいたのだが、やってくれないか。」と依頼されたのです。私は生まれて初めて居酒屋さんで皆とお祈りをし、賛美歌を歌い、説教をしました。集まった友人たちはその時に福音を聴いたのです。神様が私の思いを越えてこのような機会を与えてくださいました。

ペテロは何を語ったのでしょうか?

1.この奇蹟はイエス様の御業であって、ペテロの力による働きではない、ということです。

私たちクリスチャンは罪赦された罪人です。クリスチャンと言っても、いつも自分中心に考えやすい、自己中心な考えに陥り易い者です。しかし、いつもイエス様が私たちを通して、又、私たちを用いて御業を成しておられることを忘れてはなりません。特に自分が何かで成功したと思った時に気を付けなければなりません。ペテロは言いました。「どうしてこのことに驚いているのですか。どうして、私たちが自分の力や敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。」(12)ペテロが素晴らしく霊的なクリスチャンだから、ペテロは有名な使徒だから、ペテロの信仰は強く、信仰生活は立派だから、この奇蹟が起こったのではないのです。繰り返しますが、このような人間礼讃が教会に入りこみ易いので気を付けなければなりません。「○○先生が素晴らしいから、あの教会は発展した。」と言うようなことを言ったり、考えたりしやすいのです。私自身もそのように考える危険がありますので、気を付けています。

2.イエス様は神様です、とペテロは語りました。

「アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。」とペテロは言いました。これはどういう意味でしょうか?「アブラハム、イサク、ヤコブの神」とは、ユダヤ人と契約を結ばれた神様、この神様は、彼らが生きている現在も、生きて働いている神様だ、ということを示しています。つまり、この奇蹟を見て驚いて駆け寄ってきたユダヤ人たちに、あなたがたの信じているこの神様は、しもべとなられて人間の姿を取って来られたイエス様に「栄光をお与えになった」つまり、イエス様は神様の栄光を持っている、栄光に輝いている方、イエス様は神様なのだ、と言うことです。この真の神様であるイエス様が彼の足を強くし、立ち上がり歩くだけではなく、跳びはねることができる人に癒し、治したのだ、と語ったのです。これは自分の行ったことではない、イエス様の御業です、と言うことを強調したのです。私たちもいつもこのこと、イエス・キリスト中心に考え、キリスト中心に行動することが大切です。

3.あなたがたは罪人です、とペテロは言いました。

ペテロは彼らユダヤ人たちがイエス様に何をしたのかを話しました。まず、彼らはイエス様を裁判に引き渡しました。異邦人であるピラトが無罪だと言っているのに、彼らユダヤ人はイエス様を罪人として裁判に引き渡したのです。その上、イエス様に面と向かってイエス様を否定し、神様として受け入れなかったのです。ユダヤ人のリーダーたちだけではありません。ユダヤ人の群衆、大衆はイエス様を拒絶して、罪のないイエス様を赦すのではなく、人殺しの強盗の罪を赦せ、と叫んだのです。その結果、イエス様は十字架に張り付けにされ、殺されたのです。これは他人事ではない、あなたがたが行ったことです。このようにあなたがたはまことの神様であるイエス様に対して罪を犯しているのです、とペテロは彼らの罪を鋭く指摘しました。

これは二千年前の事で私たちと関係のないことではありません。現代に生きる私たちも同じ罪を犯しているのです。ユダヤ人たちがイエス様を面前で拒んだように、私たち、大多数の日本人もイエス様を面前で拒んでいます。「イエス・キリスト?俺、知らね~よ。」「関係ない」多くの人は、イエス・キリストではなく、お金や物を優先して生きています。まことの神様がおられるのに、仏像を拝んだり、お稲荷さんを拝んだり、いろいろな神社に祀られている神々を拝んだり、お賽銭をあげたりしています。まことの神様を無視して、自分の欲望に従ってご利益を求めています。平穏な毎日が続くものだと勝手に思い込み、日常生活に追われています。ある人は快楽にふけり、お金や物が全てだ、と考えて、ギャンブルに、様々な遊びにふけっています。これらはイエス様に対する罪です。ペテロははっきりと集まって来たユダヤ人たちに彼らの罪を指摘しました。私たちも同じです。聖霊が導いてくださり、私たちがクリスチャンではない人に証しする機会が与えられた時に、私たちがはっきりと伝えなければならないことは、私たちは神様の前で、イエス様の前で、罪人であることです。キリスト教は良いよ、とか、教会は素晴らしいよ、とだけ伝えるのではなく、私たちは神様の前に罪がある、ということを伝えるのです。その時、大切なことは、聖書の教えている罪を正しく、分かるように伝えることです。イエス様の言われている罪とは、警察沙汰になる刑事上の犯罪のことではありません。罪とは、イエス様を神様として受け入れず、拒絶していると言う罪のことです。このことを伝えなければなりません。イエス様を中心にして生きているのではなく、自分中心に生きていることが罪です。また、私が小冊子「人間らしく生きる」に書きましたように、「人間らしく生き」ていないことが罪なのだ、と伝えるのです。私たち、一人一人は神のかたちとして創造されました。それなのに神を否定して神のかたちを歪めて生きている、このことが罪なのです。

4.イエス様はよみがえられ、今も生きて働かれている方です、とペテロは語りました。

15節を見てください。彼らは「いのちの君を殺したのです。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。」のです。彼らはイエス様を殺して勝利を収めたと思ったかもしれません。しかし、神様はイエス様を死からよみがえらせました。つまり、イエス様は今も生きておられるのです。私たちは何千年前にいた聖人を信じているのではありません。昔にいて今は死んでいない聖徳太子のような方を信じているのではありません。今現在生きておられるイエス様を信じているのです。確かに目には見えませんが、よみがえられたイエス様は、今も私たちの生活の中で、日々の行動の中に働いておられるのです。16節を見てください。ペテロは強調して言いました。「このイエスの名が、・・・この人を強くしました。」イエス様の名とは、イエス様の権威、力のことです。よみがえられたイエス様の力によって、この美しの門で物乞いをしていた人の足は治るだけではなく、「完全なからだ」になったのです。ですから、足が治ったことを喜んでいるだけではなく、彼は神様を賛美するようになり、神様を礼拝するようになったのです。この変化はどのようにして起こったのでしょうか?それはイエス様の名を信じる信仰によって起こったのです。

5.それではその信仰はどのようにして与えられたのでしょうか?

16節にありますように、「イエスによって与えられる信仰」なのです。よみがえられて、今も働かれているイエス様は、聖霊によって私たちの心に働きかけられ、イエス様が私たちの罪を赦してくださるために十字架についてくださったことを教え、分からせてくださいます。更に、聖霊は私たちに働いてイエス様を救い主として、神様として信じる信仰を与えてくださいます。そして聖霊なる神様は、信じる私たちに新しいいのちを与えてくださいます。この新しいいのちによって私たちは日々変えられて行きます。皆さんはこのような経験をしたことはありませんか?あの人はクリスチャンになる前はあんな人ではなかったのだよ。今はあんなに優しく親切で朗らかだけど、教会に来始めた頃は、ちょっと話しかけるのも恐ろしかった、と言うような経験です。私たちがクリスチャン生活の中で見る変化、新しいいのちによって変えられていく姿は、よみがえられたイエス様が今も私たちの中に働いておられることの証拠です。このように、私たちはイエス様を信じる信仰によって新しく造り変えられ、イエス・キリストの福音を口で証しし、私たちのクリスチャンとしての生活を通して、生き様によって証ししているのです。

ペテロは立ち上がり、イエス様の力について、働きについて証ししました。私たちも同じように聖霊に励まされて、神様が与えてくださった機会に、進んで、イエス様について、福音を人々に伝えましょう。

お祈りします。

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