日本福音キリスト教会連合

「聖霊の励ましによる前進」

 
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2022年4月から「上水めぐみキリスト教会」の牧師。 サイクリングやジョギングが趣味。

使徒の働き3:1~10

ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。
彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。人々はみな、彼が歩きながら神を賛美しているのを見た。そしてそれが、宮の美しの門のところで施しを求めて座っていた人だと分かると、彼の身に起こったことに、ものも言えないほど驚いた。聖書 新改訳2017

イエス様は昇天される前に弟子たちに命じられました。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」(1:4)と。
その父の約束とは、聖霊が弟子たち一人一人に下り、弟子たちの中に宿ることでした。使徒の働きの2章にはその父の約束である聖霊の降臨がどのように起ったかが記されています。その上、イエス様の約束通り、聖霊を受けた弟子たちは力を受けて、キリストの証人となったことが2章の終りに記されています。ペテロは聖霊の働きによってイエス・キリストによる救いを人々に証しし、一日で三千人程の人がクリスチャンになりました。このクリスチャンたちは聖霊に励まされて自ら進んで聖書を学び、その教えに従いました。互いに主にあって交わり、共に礼拝しました。また、霊的な面でも物質的な面でも互いに助け合い、心を一つにして福音を伝道しました。

聖霊の励ましを受けて、ペテロとヨハネは午後3時にエルサレムの宮に礼拝に行きました。多くのユダヤ人が祈りのためにエルサレムの神殿に来たのでしょう。神殿のある広場に入る門、美しの門と呼ばれていた門に礼拝に来る人々から施しを得るために一人の人物乞いをしていました。
以前、マタイの福音書のイエス様の「山の上の説教」からお話しした時にも言いましたが、施しとか、断食とか、祈りというのは、ユダヤ教信者たちが大切にしていた善行です。
ですから、礼拝に来る人々に施しを求めるのはお金を得る良い機会でした。この人は「生まれつき足の不自由な人」で、40歳位(4:22)の人でした。家族なのでしょうか、友人なのでしょうか、毎日、彼を美しの門まで運んで来てくれる人がいたのです。
そこに、聖霊に励まされて礼拝にやってきたペテロとヨハネがやってきました。彼が物乞いをすると、ペテロは彼を見つめて、「私たちを見なさい。」と言ったのです。彼は当然お金がもらえると思ったのでしょう、ペテロとヨハネに目を注ぎ見つめました。すると、ペテロは「銀や金は私にはない。」言ったので、彼は内心「なあ~んだ」とがっかりしたことでしょう。
ところがペテロはそこで止めませんでした。「しかし、私にあるものをあげよう。」と言ったのです。物乞いをした人は「やったあ~!」と思ったかもしれません。いやそんなことを思う余裕もない程すぐに、ペテロは、「ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と命令したのです。その上、ペテロは彼の右手をつかんで立たせたのです。するとどうでしょう。生まれた時から弱くて歩けなかった足とくるぶしが強くなり、彼が立ち上がり、歩けたのです!歩けただけではありません。彼は喜んで飛び跳ねて。ペテロとヨハネについて来たのです。

実はこれはイエス様が救い主(メシア)である、ということを示すしるしです。旧約聖書のイザヤ書35:5~6にメシアが来られると次のようなことが起こる、と預言されていました。

「目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。」

ユダヤ教では、彼のように足が悪い障碍者は神殿の中に入ることができません。礼拝に参加できなかったのです。しかし、今、彼は足がよくなり、自分で歩けるようになりましたから、「神を賛美しつつ、ペテロとヨハネと一緒に宮に入って行った」のです。それを見ていた人々は「ものも言えない程驚いた」のです。だって、この踊って喜び、神様を礼拝しようとしている人は長い間「美しの門」で物乞いをしていた人だと分かったからです。

このように聖霊の励ましによって前進する人は、

1.自ら進んで礼拝をする、教会生活をする人に変えられます。

ペテロとヨハネは「毎日心を一つにして宮に集まり」(2:46)礼拝していたのです。
私たちも同じです。私たちが聖霊に励まされて信仰生活を前進していくと、きちんとした教会生活、信仰生活をするように変えられます。個人的な生活の中でもデボーション(神さまの前に静まる時)を持つ生活になります。日々聖書を読み、祈る生活です。これを牧師や他の人に言われてするのではなく、自ら進んでするようになる生活、自然と自分の中から教会に行きたい、聖書を読みたい、お祈りをしたい、という願いが出て来て、そのようにするクリスチャンに変えられるのです。

2.自分の周りの必要を知り、その根本原因を知って行動するようになります。

ペテロとヨハネは宮に礼拝に祈りに行きました。そこで美しの門に置かれているこの物乞いをする人に出会ったのです。彼らはこの人の声を無視して通り過ぎ宮の中に入ることもできたでしょう。きっと多くの人々はそのようにしていたことでしょう。
しかし、ペテロとヨハネは聖霊に促されて、その人の声に耳を傾け、その人を見つめたのです。見つめただけではなく、「私たちを見なさい。」と彼に自分たちを見るように言いました。正面から向き合ったのです。そして彼の根本的な必要、原因を知ろうとしたのです。
お金をあげても彼の根本的な問題は解決しないのです。そのお金が無くなれば彼は続けて物乞いをしていかなければなりませんから。二人はこの人の根本的な問題は足が悪いこと、そのために働くことができないことであることを見透したのです。
私たちが聖霊に励まされて前進していく時もこれと同じです。
私たちの置かれた状況、立場をよく見て知ることです。そして聖霊の助けを得て、今自分のいる状況の必要は何なのか、問題は何なのか、を知ることです。良く見ること、観察することが大切です。例えば、私たちは突然、友人に出会うことがあります。また、ある人から自分では考えてもなかったことの相談を受けることがあります。そのような時に私たちは聖霊なる神様が私たちをどのように導き、教えておられるのかをよく見て、考えることが大切です。その友人の言葉から、彼の必要は何なのかを知ることです。
この相談事からこのことの根本的な解決は何にあるのかを知ることができるように聖霊に助けを求め祈ることです。私がシンガポールで働いていた時のことです。深夜に突然、それも何十年振りにクリスチャンではない友人から電話がかかりました。何か、と思いましたら、「牧野、息子が交通事故で死んじゃった。母親に言ったら、宗教の助けを得るならキリスト教だ、と言われ、キリスト教なら牧野だ、と思って電話した。」と言うのです。
聖霊なる神様は私たちを導き、その生活の出来事の中で励まし、前に進むようにしてくださいます。

3.神様の力によって行動する人になります。

ペテロはこの物乞い者に何と言ったでしょうか?

「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエスの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
と言いました。ペテロは自分の力ではなく、イエス・キリストの力、権威によって生きることがこの人に一番必要なこと、根本的な解決をもたらすことだ、と知ったのです。
ですから、自分の力によるのではなく、イエスの名によって歩くように命じたのです。
聖霊は私たちの間でイエス様の働きを継続されるお方です。

私たちも同じです。何事をするにも先ず神様の力、権威の下で、自分の能力や自分に与えられた機会を用い、神様の助けを求めつつ、行動するのです。
私たちが友人や知人にイエス様の事を証しする時も同じです。私たちが自分の力、自分の知識だけに頼って話すならば、うまく話せません。また、どう言ってよいか分からないから、と言って証ししないで会話を終えてしまうことがあります。このような機会に導かれた時には、自分の力ではなく、イエス様の名によって、イエス様が弟子たちに、マタイ10:19-20、

「人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、その時に与えられるからです。話すのは、あなた方ではなく、あなたがたの中にあって話される、あなたがたの父の御霊です。」
と言われたように、聖霊が与えてくださる力と知恵によることばで話すことです。私は聖霊の導きで自分では思いもよらなかった形でクリスチャンではない人にイエス様のことを分かり易くお話しすることができたことや、そんなつもりではなく始めた会話が神様の導きで自然な形で自分の信仰のことをお話しできたと言う経験をしたことが何度もあります。

4.神様のみ業を見て、神様の御名がほめたたえられる生き方をすることです。

この生まれつき足の悪かった人は、ペテロが手を伸ばして立たせた時に、足が癒され立てるようになりました。その時彼はどうしたでしょうか?
①躍りあがって立ち、歩いたり、跳びはねたりしながら、神を賛美したのです。
②彼はペテロとヨハネと一緒に宮に入り礼拝しに行ったのです。
このように、彼はこの癒しの業が神様のお働きであることを認め、神様に感謝し、喜び、神様をあがめて礼拝したのです。
しかし、私たちの間でこのような奇蹟のようなことが起こると、それを経験した人は、奇蹟を行った人、個人をほめたたえ、崇拝します。あの先生はすごい霊力があるとか、あの人は神様のような人だ、とか、人々は人間を高めたり、崇めたりします。
しかし、聖霊の励ましを受けて前進し続けることとは、人間ではなく、神様中心です。
気をつけないとキリスト教会でも「人間中心」の思いや一人の人を英雄にしたり、特別な人に仕上げる考えや行動が起こって来ることがあります。
牧師や教師を尊敬するのは良いですが、人間以上に高めたり、褒めあげることは慎まなければなりません。聖霊の励ましによって進められる神様の業は、神様の業ですから、神様の御名をほめたたえるのです。
私たちも自分の生活の中に働かれる聖霊の業を見ましょう。経験しましょう。そしてその素晴らしを見て、心から神様をほめたたえる生活をし、喜びましょう。
この人のように肉体的な癒しではありませんが、私たちは霊的な癒しを経験したことを感謝し、喜びましょう。
私たちは、かつては罪の暗闇の中にいました。争ったり、憎んだり、自分を受け入れられなかったり、他人と比較競争し優越感を持ったり劣等感を持ったりしたりしました。妬んだり、他人を見下げたり、人間を、朝鮮人や中国人を差別したり、タイ人やマレー人を土人などと呼んで軽蔑したりする人がいました。罪の結果出て来る暗闇の中で様々なことに苦しんでいました。
しかし、私たちがイエス・キリストの十字架が自分の罪のためであることを知った時に、十字架による私の罪の赦しを知り、信じ、聖霊により罪赦されて新しいのちを与えられて生まれ変わりました。その時に、イエス様の光の子とされ、光の中を歩く者とされました。何と素晴らしいことでしょうか。跳びあがって歩き、主の御名を大声で賛美したいほど嬉しいことです。
神様は私たちを救うためにいろいろな人を用いてくださいました。その中には宣教師の先生もいるでしょう。牧師もいるでしょう。クリスチャンの友達もいるでしょう。クリスチャンの親や兄弟姉妹もいるでしょう。しかし、それは神様がそれらの人を用いて神様の御業を成してくださったのです。
ですから私たちはいつも神様、父、子、聖霊の三位一体の神様を賛美し、感謝し、神様に従って行くのです。聖霊に励まされて、私たちの信仰の創始者であり、完成者であるイエス様をいつも見詰めて前進して行こうではありませんか。お祈りしましょう

 

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