日本福音キリスト教会連合

教会は前進し続ける

 
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2022年4月から「上水めぐみキリスト教会」の牧師。 サイクリングやジョギングが趣味。

使徒の働き9章26~31節(聖書本文はこちら)

2021年度の目標聖句として私は9:31のみことばから「主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった。」を選びました。そして使徒の働きから少しずつメッセージをしてきました。遂に今日、その個所まできました。

1.サウロの信仰体験を正しく理解し、受け止めたアナニアとバルナバ 

サウロはダマスコへ行く途中でよみがえられたイエス様と会い、クリスチャンになりました。直ぐに彼はクリスチャンとしての生活、生き方を始めました。それは今迄の生き方とは全く違う新しい生き方でした。今まではイエス様を迫害するものでしたが、クリスチャンになり、イエス様に祈る者になりました。クリスチャン同士が集まり、神様に仕え、礼拝する教会生活に加わりました。自分が信じた福音、主イエス・キリストが救い主であることを大胆に証しし、語る者となりました。

そうすると逆に、サウロはイエス様の故に迫害される者となりました。ダマスコでユダヤ人たちはサウロを殺そうと陰謀を企み、彼は命からがらダマスコから脱出して、アラビアで3年間神様の前に静まり学びの時を持ちました。その後、サウロはエルサレムに戻ってきました。

皆さんは、教会にちょっと見た目恐ろしそうに見える人がやってきたらどうされますか?もうだいぶ前になりますが、元ヤクザであった人たちで、皆派手な刺青をしている人たちがクリスチャンになり、伝道者になってミッション・バラバというチームを作って日本の各地で伝道していたことがありました。私はあのような人が初めて教会に来たら、皆どう思うだろうか、と考えたことがあります。すでに過去の罪を悔い改めて、主イエス・キリストを信じてクリスチャンになっていて、主にある兄弟なのだ、と頭では分かっていても、引いてしまいます。それと同じではないでしょうか。サウロがエルサレムに来、教会に来て、他のクリスチャンたちの仲間に入ろうとしたのです。教会の人々は「彼が弟子(クリスチャン)であるとは信じず、彼を恐れていた。」(26)のです。

ダマスコでサウロが教会に入って行った時もそうでしたが、これはエルサレム教会の人が悪いのではなく、当然のことです。しかし、神様は素晴らしい愛に溢れるお方です。ダマスコではアナニアという人を備えて、サウロをクリスチャンたちの交わりの中に入れるようにしてくださいました。

今度、エルサレム教会では、バルナバという人を備えていて下さいました。27節を見てください。「しかし、バルナバはサウロを引き受けて、使徒たちのところに連れて行き」ました。いつの時代でも、どこでも神様はこのようなクリスチャンを備え、用いて教会を前進させてくださいます。アナニアやバルナバのような人がいない教会では対立と分裂が起こってしまいます。教会がいつも主にあって一つとなり、前進することを祈り、その為に私たちも優しく人を受け入れるバルナバのような人になって行きましょう。

バルナバはエルサレム教会のリーダーである使徒たちにサウロが経験したことを説明しました。サウロはよみがえられた主イエス様と会ったのだ、ということ、また、イエス様が彼に語った事、即ち、9:15にあるように「サウロは主イエスの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、主イエスの選びの器です。」とエルサレムにいた使徒たちに(ペテロ、ヤコブ、等)説明したのです。このバルナバの説明によってサウロはエルサレム教会の仲間に入ることができました。

2.教会の交わりに大切な「信仰の内容」

 ここから分かりますように、アナニアもバルナバもただ、優しい人で仲を取り持ったというレベルの事をしたのではありません。サウロの信仰を、信仰体験を正しく理解し、受け止めて教会に紹介しているのです。信仰の内容が大切なのです。「あの人はとってもよい人だから」「あの人は別の教会で洗礼を受けているから」「あの人が加わってくれたら教会の働きが進むから」というような人間的な思い、人間的な配慮、人間的な利害からクリスチャンのグループは人数を増やしていくのではありません。ここでバルナバが説明しているように、信仰の内容、この人は自分の罪を認め、悔い改めているのか、主イエス・キリストの十字架の贖いが自分の罪のためであることを信じているのか、主が三日目に死からよみがえられたことを信じているのか、聖書は神様のみことばであると信じて、その言葉の教えに従って生きている人なのか、というようなことをチェックして同じ信仰に立っている人、兄弟姉妹として受け入れ合い、交わって行くのです。バルナバの手助けによってサウロはエルサレム教会の一員として受け入れられ「自由に行き来し」ました。

きっと、素晴らしい信仰の交わりと励まし合いがあったのでしょう。すると、サウロはダマスコでしたように、早速、福音を人々に語りました。ダマスコでもエルサレムでもサウロは福音を「主の御名によって大胆に語った」(29)のです。

3.福音を大胆に語ると迫害する者が出てくる

興味深いことですが、エルサレムでもダマスコで起こったと同じようなことが起こりました。それは福音を大胆に語ると迫害する者が出てきた、ということです。サウロを殺そうとギリシャ語を話すユダヤ人たち、つまりヘブル語を話すユダヤ人たちよりも宗教的に厳格ではないと考えられるユダヤ人たちも主イエス・キリストの福音を拒絶したのです。このようにイエス様がサウロに現れた時に告げられた「サウロが主イエスの名のために苦しまなければならない」(16)と言われたことばの通りになりました。これは今でも同じです。私たちがクリスチャンとして信仰に堅く立ち、主イエスの福音をはっきりと、また、大胆に語ると、強い反対を受けます。クリスチャンだと言わなければ迫害されません。聖書のことば信じて、それに従うと言わなければ迫害は受けません。

 4.キリスト中心のあかし

 このサウロの態度、証しの特徴は「キリスト中心」と言えます。ダマスコでサウロは「この方こそ神の子です。」とイエスのことをのべ伝え始めた。(20)とあり、22節では「イエスがキリストであることを証明して」と、あります。また、28節に「主の御名によって大胆に語った」とありますように、主イエス・キリストを中心にして語ったのです。私たちも同じようにキリスト中心に証をし、キリスト中心に語り、また、考え、行動すべきです。これが「主を恐れる」(31)ということです。

しかし、歴史を学ぶと分かりますように、サタンはしばしばクリスチャンたちを、また、教会を「キリスト中心」から「人間中心」やキリスト以外の物を中心にするように誘惑してきます。どういうことかと言いますと、キリストを見るのではなく、自分や他の者を見るようにするのです。キリストを愛することではなく、自分を愛することを強調する教えに傾いたりするのです。キリスト中心に考え、行動するのではなく、自分たちの教会の利益、名誉を優先して考え、行動することがクリスチャンたちの間に入ってくるのです。

5.教会の誕生

このようにサウロが、また、クリスチャンたちが主イエスの福音をのべ伝えて行きましたから、31節にありますように、「教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり築き上げられて平安を得た」のです。使徒の働きでは、ここで初めて「教会」ということばが出てきました。

17節でアナニアがサウロのために祈った時にサウロは聖霊に満たされ、聖霊の力によってキリストをのべ伝え始めました。その聖霊はサウロのみならず、多くの弟子たちを、クリスチャンたちを励まし続け、主イエス・キリストを信じる者がどんどん起こされて行きました。地域的にも拡がって行きました。エルサレムだけではありません。その北のユダヤ地方にもクリスチャンが起こされ、教会が築き上げられました。もっと北のガリラヤ湖があるガリラヤ地方にも教会が建てられました。更にユダヤ人と疎遠であったサマリア人の間でも主イエスを信じる人々が多く起こされて教会が建てられたのです。何と素晴らしいことではないでしょうか。

6.平安が与えられる

 31節の「平安を得た」ということばが印象的です。平安とはどのような平安なのでしょうか?

  • まず、主イエス・キリストの十字架とよみがえりを自分の罪からの救いのためであることを信じ受け入れて、神様との間に「平安」を得た、平安です。
  • 更に、それは、戦争が続き、民族間の争いが絶えない社会の中に生きている人々に本当の平安を与えた、ということでしょう。ユダヤ人も、異邦人も皆同じクリスチャンとして兄弟姉妹として受け入れ合うことのできる教会内にある平安でもあります。

個人の心の中にある神様との平安、教会の中にある兄弟姉妹の間の平安、社会や民族を越えて主にあって与えられる平安はどのように培われたのでしょうか?

  • 教会のクリスチャンたちが「主を恐れ」て生きていたからです。すでに述べましたように、教会はキリスト中心に生き、行動し、主イエス・キリストを証しし、伝道したのです。
  • 聖霊の力と働きによって進んで行ったからです。クリスチャンたちが「聖霊に励まされ」ていたのです。どうしたら聖霊に励まされることが出来るのでしょうか?

ローマ書8:5に,

「御霊に従う者は御霊に属することを考えます。」「御霊の思いはいのちと平安です。」(6)「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。・・・この御霊によって、私たちは『アバ、父』と叫びます。」(15)

とあります。 

御霊に励まされるには、まず、御霊に導かれて祈ることです。

  • ローマ8:26には

「御霊も弱い私たちを助けてくださいます。私たちは何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。」

とあります。どのように祈って良いか分からなくとも、神様の前に心を静めて祈ってください。うまく言えないかもしれませんが、「聖霊様、祈りを導いて下さい。」と言ってみてください。ことばが出てこなくても気にしないでください。「うめき」をもって祈っても良いのです。

聖霊の励ましを受けるもう一つの大切な方法は聖書のみことばを読むことです。

聖書を読む前に、「主よ、これから聖書を読みます。読む箇所の意味が分かるように助けてください。そのみことばをどのように実行したらよいか教えてください。」と祈ってから聖書を読んでください。御霊は私たちの心に光を照らし、私たちの理解力を助けてくださいます。そして聖書の意味が分かった時、神様がそのみことばを通して私たちがすべきことを教えておられることが分かった時、私たちの心は喜びに満たされます。励まされ、感謝の心で一杯になります。エペソ書5:18~19の

「御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって(キリスト中心)心から賛美し、歌いなさい。」

のことばどおりに、心からの賛美をキリストにささげることができます。

7.結び 

コンスタントな生活が教会を築き上げました。主を恐れて、キリスト中心に生きることをいつもすることが大切です。キャンプや修養会から帰って来た時にそこで受けた恵みで励まされ強められる事は素晴らしいことです。しかし、数ヵ月後にはすっかりその恵みの励ましが冷めてしまうのではいけません。その恵みのうちに続けて生きるのです。コンスタントな信仰生活を求めて行きましょう。御霊によって励まされ続けて行く時に教会は前進し続けて行くのです。また、教会に集う人の数も増え続けて行くのです。この2年間、コロナウィルス感染の影響で教会はいつものように伝道するのが難しかったです。牧師もいませんでした。しかし、主は素晴らしいお方です。4月から新しい牧師を召し、導いて下さいます。感謝しましょう。新年度、新牧師、「主を恐れ、御霊に励まされ前進し続ける」私たちを主はどのように用いて下さるのでしょうか?私の心は希望と期待と喜びに満たされています。お祈りしましょう。

使徒の働き9章26~31節

この話はその地方全体に広まった。
 イエスがそこから進んで行くと、目の見えない二人の人が、「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。
イエスが家に入られると、その人たちがみもとに来た。イエスが、「わたしにそれができると信じるのか」と言われると、彼らは「はい、主よ」と言った。
そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。
すると、彼らの目が開いた。イエスは彼らに厳しく命じて、「だれにも知られないように気をつけなさい」と言われた。
しかし、彼らは出て行って、その地方全体にイエスのことを言い広めた。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 

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