日本福音キリスト教会連合

十字架のことば

 
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2022年4月から「上水めぐみキリスト教会」の牧師。 サイクリングやジョギングが趣味。

第1コリント1:17~31(聖書本文はこちら)

今朝は小林祐KGK主事がご奉仕くださる予定でしたが小林さんがコロナの濃厚接触者になり、ここに来ることが出来なくなりました。そこで急遽私がみことばを取り次ぎます。コリント人への手紙第一1:17~31のみことばから「十字架のことば」と題してお話しします。

1.キリスト教の中心主題は「十字架」です。

この当時、コリント教会は様々な問題で揺れ動いていました。教会内にいろいろなグループができて互いに主張が違い、分裂しそうであったようです。そのような状況を理解してパウロは彼らが信仰の基本に立ち返り、考える様に教えています。

信仰の基本とは何でしょうか?

十字架です。十字架に付けられたキリストです。

主イエス・キリストは私たちの罪を贖うために、私たちの身代わりとして十字架に付けられ、死にました。十字架によって神様は、キリストを信じる者を罪から救い、義とされたのです。自分の子供を犠牲にするなんて、私たちにはバカなこと、愚かなことに思えます。なぜこのような御子イエス・キリストを犠牲にしてまで神様は私たちを義とされるのでしょうか?

それは神様が私たちを愛しておられるからです。十字架は神様の愛による救いの御業です。このように十字架は神様の義の御業愛の御業を現わしています。パウロはここで更に、十字架は、神の知恵であり、神の力であることを教えています。

「十字架のことばは救われる私たちには神の力です」と。(18)
パウロはこの「十字架のことば」、福音を宣べ伝えているのです。

ところがコリントのクリスチャンたちは、自分は誰からバプテスマを受けたかということで言い争いをしていたようです。先日ピリポがエチオピア人にバプテスマを授けた所でも言いましたが、誰にバプテスマを授けて頂いたかはそんなに重要ではなく、バプテスマを受けた者たちは、皆同じクリスチャンです。パウロはそのようなことで言い争うのは愚かなことだ、ということを示すために、こう言っています。17節を見てください。

「キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。」

バプテスマを授けて下さった何何先生の方があの先生より優れている、というような「人間のことば」が重要なのではないのです。そのようなことで言い争っていれば「キリストの十字架」がむなしくなってしまいます。 私たちクリスチャンにとって大切な事は、「十字架のことば」なのです。この「十字架のことば」を私たちは信じ、人間の「ことばの知恵によらずに」(17)人々に証しし、伝道して行くのです。

2.十字架のことばは、「滅びる者」には愚かにひびく。

ところが、私たちがこの「十字架のことば」を他の人々に伝えると、「馬鹿らしい」「おれには関係ない」「私は悩んでいないから」と言って、十字架のことばを聞こうとしない人々が多いのです。しかし、これはいのちに関わる重大な問題なのです。と言うのは、18節にありますように、

「十字架のことばは、滅びる者には愚かである」
からです。

滅びる者とは、どういう人のことでしょうか?

これは、神様は私たち人間の罪を裁かれる、と言うことを示しています。その裁きに於いて、神様は人間の罪を正しく裁き、罪ある者を滅ぼす、ということです。十字架のことばを自分には関係がない、と考えて聞こうとしない人、偏見を持って拒否する人、自分には自分の正しい考えがあると思っていて十字架のことばを必要としないと思っている人には、十字架のことばは「愚か」に思え、聞かないのです。しかし、実はこの十字架のことばは、私たちの罪を赦す、神様の力、私たち人間を罪から、滅びから救うことができる力なのです。19節に引用されていますように、人間の知恵や悟りで人間は自分の罪の解決ができないことを神様は旧約聖書の時代から示しています。哲学者たち、学者たち、論客たち、賢い人々が彼らの知恵を用いて人間の救いについて語り考え、努力をしてきていますが、それらは空論に終わり、解決がなく、むなしいのです。そんなに頭の良い人たちだけはなく、巷にはいろいろといかにも賢そうなことを言う人がいます。あのパワースポットに行けば、問題は解決するよ、とか、あの祈祷師に拝んでもらえば治る、とか、あの像を買って祭れば「たたり」はなくなる、とか言います。

3.神様は人間の知恵やことばによって神様を知ることができないようにされた。

しかし、神様は人間の知恵やことばによって神様を知ることができないようにされたのです。(21)

それでは、私たちには罪から救われる、罪を解決する道はないのですか?

いや、あります。

21節を見てください。

「それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。」

神様は私たちクリスチャンが宣教することばによってそのことばを信じる者を起こし、救うようにしたのです。「宣教のことば」とは、福音のことです。それは23節にありますように、「十字架に付けられたキリスト」です。

ところが私たちが十字架に付けられたキリストを宣べ伝えると、ここに記されているユダヤ人と同じような日本人は、しるしを要求するのです。「しるし」とは、人間の目に見える形で表された「力」ある業です。例えば、私の癌を癒してみろ、そうしたら信じるとか、今、自分の商売が倒産しそうだが、パッとどこかから金を出し、つぶれないように助けてくれたら信じる、とか。目に見える力ある業を何も示せないで、ただ2千年前の十字架刑を信じろなんて言われたって無理だよ。信じられないよ、と言う人がいます。また一方、ギリシャ人のような日本人は、「知恵」を求めます。例えば、この世界はビッグバンで始まったがその前にはこういう粒子があったのだ、と言う新しい物理学の理論のようなもので証明できる「救い」かもしれません。このような「知恵」はよく様々な新興宗教が使います。横文字を沢山いれた何か訳のわからないような「知恵」を用いて救いが得られるような話です。しかし、十字架に付けられたキリストにはそのようなものはありません。ですから、ユダヤ人やユダヤ人のような日本人には福音、十字架に付けられたキリスト、十字架のことばは、つまずきなのです。キリストのことばを信じ、受け入れることができないのです。「つまずき」と訳されていることばは、スキャンダルと言うことばの語源です。つまり、十字架ではなく、何か「しるし」を求めている人には、十字架に付けられたキリストは自分の人生にスキャンダルを起こすようなことに思えて、受け入れられないのです。十字架のことばを信じたら、先祖代々のお墓のことがある、自分がクリスチャンになったら会社では昇進できなくなる、今までの仲良しの友達から仲間外れにされる、というようなスキャンダルです。

また、ギリシャ人のような日本人には、今みたいな近代科学の時代に、キリスト十字架とよみがえりなんて信じられないよ、非科学的だ、こんな古い本聖書の言うことではなく、やはりコンピューターサイエンスに対応するようなことでなければ、信じ受け入れられない、とバカにされます。彼らには愚かなことに思えるのです。

「しかし、私たちは十字架に付けられたキリストを宣べ伝えます。」(23)

なぜでしょうか?それはたとえ私たちがユダヤ人的な人であっても、ギリシャ人的な人であっても、十字架に付けられたキリストは、人間の目には弱弱しく見えても、「神の力」であり、無実、罪がないのに罪とされ、群衆心理に煽られて暴徒化した人々の叫びに負けて行われた裁判で死刑の判決を受けるというバカバカしい、愚かな死に方に思える十字架ですがそれは「神の知恵」だからです。

このように人間の知恵と比べると、愚かに見えるような神様の行いは、人間の知恵よりも賢いのです。また、人間の目に弱々しく見える神様は、人間の力とは比べ物にならないほど強いお方なのです。

私たちはパウロと同じように、この福音を証しし、他の人に宣べ伝えるのです。

3.神様が「十字架のことば」を、弱く知恵のない私たちに託した理由

ところが最近の日本では、そんな単純な十字架のことばを伝えるのは効果がない、時代遅れだ、というクリスチャンたちが増えてきているのです。むしろギリシャ人のように、人間の知恵を使って「キリスト教の良さ、魅力」を伝えよう、と言う人が増えているようです。そこで、教会では様々なイベントが企画されたりしています。

そのような考えで、キリスト教の音楽、美術、文学、歴史などの集会を行っています。これらはとても良いことです。しかし、それらが「十字架のことば」を宣べ伝えることの代わりのようになって、福音は語らない、十字架は語らないようになって行くと、聖書の教えからそれて行ってしまいます。また、ユダヤ人的な人は奇蹟を求めます。そのために心理効果を用いて奇蹟が起こったかのように見せたり、滝に打たれたり、山の上で大声を出して祈ったりして「しるし」を求めますが、十字架のことばは語らないのです。

なぜパウロのように「十字架のことば」を宣べ伝える人が少なくなってきているのでしょうか?

それはクリスチャンたちの多くの人が自分は「知者」ではないと思って、福音を証しする自信がないからかもしれません。「自分なんて知識もないし、うまく言えないし、他人にイエス・キリストのことを話せない」と思っている人が多いのではないでしょうか?

コリントのクリスチャンたちもそういう人が多かったようです。自分に自信がないから、何何先生にバプテスマを授けて頂いた者だ、というようなことを頼っていたのかもしれません。

しかし、神様は私たちのような「この世の愚かな者を」「この世の弱い者」を選んでおられるのです。つまり、十字架のことばは、自分は愚かだ、と思っているクリスチャンたちや、自分は弱いものだ、と思っているクリスチャンたちを通して宣べ伝えられる様に、神様はなさっているのです。

なぜでしょうか?

それは27節にありますように、

「知恵ある者を恥じ入らせるために」「この世の強い者を恥じ入らせるために」
そうされているのです。

面白いですね。神様は十字架のことばを私たちのような弱い者や愚かな者を通して全世界に伝えようとしておられるのです。なぜ強い者や賢い人ではないのでしょうか?それは神様の前には人間の「誇り」は無用だからです。私もそうで、いつも自戒し、気を付けて行かなければならないのですが、人間ってすぐに自慢したがるのです。誇りたがるのです。しかし、神様は誇る者を退け、こどものように謙遜な人を、弱く、知恵のない者を用いられるのです。私たちは神様の恵みによって救われ義とされました。行いが良かったから救われたのではありません。私たちは神様の愛によって救われたのです。神様は御子イエス・キリストを十字架に付けて私たちの罪の身代わりにするほど私たちを愛して下さったのです。私たちは十字架のことば、神様の力によって救われたのです。私たちに誇るべきものは何もありません。ですから誇るのだったら、主イエス・キリストを誇りにして生きるのです。

4.結び

私のために十字架に架かってくださったイエス・キリストを宣べ伝える者として私たちのような弱い者、愚かな者が神様に選ばれたのです。「ああ、十字架、わがためなり」と歌う私たちは主イエス・キリストを誇りとして十字架に架かられた主イエス・キリストを宣べ伝えて行きましょう。私たちの家族に、友人に、近所の方々に証しして行きましょう。そして私のために十字架に付けられた主イエス・キリストを誇りとして生きて行こうではないですか。お祈りしましょう。

第1コリント1:17~31

キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。これはキリストの十字架が空しくならないようにするためです。
 十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。
  「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、
  悟りある者の悟りを消し去る」
と書いてあるからです。
知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。
ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。
しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、
ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
 兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。
有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。
肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。
しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。
「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

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