聖い神様がおられる所
使徒の働き7:1~8
するとステパノは言った。「兄弟ならびに父である皆さん、
『あなたの土地、あなたの親族を離れて、
そこで、アブラハムはカルデア人の地を出て、
ここでは、足の踏み場となる土地さえも、
また、神は次のように言われました。『
また、神は言われました。『彼らが奴隷として仕えるその国民を、
そして、神はアブラハムに割礼の契約を与えられました。
1.ステパノへの非難
サタンは民衆や長老たちと律法学者たちを用いてステパノを糾弾しました。
彼らは、
それを聞いて、大祭司は
彼らの非難は二つの点にまとめられます。
- ステパノは聖なる所、エルサレムの神殿を汚し、壊そうとしている。
- ステパノはモーセの律法に逆らって、律法に従っているユダヤ人の慣習を変えようとしている。
2.ステパノの弁明
このような訴えを聞いて、大祭司はステパノに「その通りか?」と質問しました。そこでステパノは彼らのでっちあげられた批判に対してはっきりと答えたのです。
最近は、安倍前首相や菅首相のように質問にまともに答えないで自分の言いたいことを言って人の言うことに答えずにはぐらかす、という人が増えて来ています。頭できちんと考え、質問されたことに対して相手の人が分かるように答えることが私たちクリスチャンに教えられていることです。ペテロの手紙第一3:15に、
ステパノは御霊によって知恵を与えられ、彼らの非難に答えました。
まず、「兄弟たち並びに父である皆さん」と語りかけます。これは自分も皆さんと同じユダヤ人の一員です、と親しみを込め、謙遜な態度で答えているのです。その上、ステパノはユダヤ人とはどういう人、民族なのかを思い出させます。ユダヤ人はアブラハムから始まりました。アブラハムは元々メソポタミア人です。その頃アブラハムはまだクリスチャンではなく、真の神様を知らずにいましたが、神様の方から先にアブラハム(アブラム)に現れ、語りかけられたのです。真の神様はそれまでアブラハムが拝んでいた神々とは違って「栄光の神」(2)です。「栄光の神」とは、神様の輝き、ご栄光を私たちに現わし、示されるお方、ということです。つまり、真の神様は、神様の方からイニシアティヴを取って私たちに働きかけ、ご自身を現わしてくださる神様で、私たちはその神様の素晴らしい輝きを見て、知ることが出来るようにして下さる神様だ、ということです。栄光の神様はアブラハムに3節にありますように、「あなたの土地、あなたの親族を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と言われました。栄光の神様の御声を聞いたアブラハムはそのことばを信じ受け入れて旅立ちました。アブラハムがこの栄光の神様と出会い、今までの宗教の神々ではなく、栄光の神様を信じ受け入れた時には、メソポタミアにいましたから、そこには「聖なる所」もありませんし、神殿もありません。ユダヤ人の先祖アブラハムは、ステパノを非難している人びとの言うような「聖なる所」や神殿で神様を礼拝していたのではありません。アブラハムはメソポタミアからハランの地に移り、そしてハランから「今あなたがたが住んでいるこの地」(4)カナンの地、パレスチナにやってきたのです。アブラハムは栄光の神様が示す地、カナンにやってきたのですが、その時にはエルサレムには「聖なる所」も「神殿」もありませんでした。その上、神様はアブラハムに土地も、相続財産も与えませんでした。(5)しかし、栄光の神様は彼にはまだ子供がいなかったのに、彼の子孫にこの地を所有地として与える、と約束されたのです。約束はそれだけではありませんでした。アブラハムの子孫は別の国に連れていかれ、奴隷になる、と言う恐ろしいことも約束したのです。しかし、その奴隷状態から解放されてこの地に再び戻って来る、とも約束されたのです。
この神様とアブラハムとの間に立てられた約束(契約)のしるしとして、神様はアブラハムに割礼を施しました。このようにして栄光の神様は神様の方からアブラハムを呼び、契約を結び、また、アブラハムの子イサクとも契約を結び、更にイサクの子ヤコブとも契約を結ばれたのです。私たちユダヤ人はこのようにして栄光の神様と契約を結ぶ一つの民族になったのです、とステパノは語ったのです。
3.ステパノの答えの核心
ステパノは、なぜこんなことを言ったのでしょうか?
それはステパノを非難している長老たち、律法学者たち、また民衆はステパノが「聖なる所」を壊そうとしている、汚そうとしている、と非難したからです。彼らの言う「聖なる所」とは、エルサレムにある神殿のことです。しかし、この神殿はエルサレムにユダヤ人たちによって建てられてからそんなに年月が経ってはいないのです。又、彼らは聖なる所、神殿に神様がおられると考えていますが、栄光の神様は歴史を見ればわかるように場所に縛られるお方ではないのです。アブラハムがメソポタミアにいた時に栄光の神様がイニシアティヴを取ってアブラハムに語り、導き、まずハランに導き、後にカナンの地に導いて下さったのです。栄光の神様はこのように一つの土地や場所にしばられていないのです。ですからステパノがいた当時には壊されてしまっていた、かつてソロモン王が建てた豪華な神殿についてソロモン自身がこう言っています。
今でも、多くの人々が、また、クリスチャンたちでさえ同じような間違った考えを持っています。
巨大なお寺や豪華絢爛たる宗教施設を建てて、そこを聖なる所とするのです。そこに神がいると考えるのです。あるクリスチャンたちも同じように大きく立派な教会堂を建てます。そしてその教会堂でお祈りをすると神様がそこにいるからお祈りを聞いて下さる、という間違った考えを持っています。ですから、イギリスのウェストミンスター教会に行ってお祈りしたいとか、ベツレヘムの聖降誕教会で礼拝したらご利益があるように考えるクリスチャンさえ出てくるのです。
神様は私たちとともにおられ、私たちがどこでお祈りをしようと聞いて下さるのです。ですから家の中で、自分の部屋でお祈りをしても神様は聞いて下さるのです。また、公園や屋外でお祈りをし、礼拝をすることもできます。旅行中に電車やバスの中でもお祈りが出来るのです。きれいな教会堂は素敵で素晴らしいですが、きれいな教会堂で、十字架の前でお祈りをしたら聞かれるが他の所ではダメだ、というような考えは間違いです。新興宗教はそのようなことを教えて人々を豪華な宗教施設に集めます。
しかし、ステパノはそうではない、と答えます。栄光の神様は神様の方から私たちに働かれ、私たちに聖書のみことば、ことばをもって語って下さるのです。そのみことばを信じるように導かれます。アブラハムだけではなく、私たちも神様のみことばを聞いて、イエス・キリストの十字架とよみがえりが私たちの罪を赦すためであった、ということを信じ受け入れ、クリスチャンになりました。それが学校でも、教会でも、あるいは家である場合もあります。キャンプ場でもありますし、クリスチャンの友達と話していた喫茶店かもしれません。栄光の神様は神様の方から私たちに語りかけて下さり、イエス・キリストの福音を教えて下さり、信じることが出来るように働いて下さるのです。そして栄光の神様がおられる所が「聖なる所」になるのです。ですからパウロはこう言っています。
このようにクリスチャンのからだが聖霊の宮、神様のおられる所、「聖なる所」なのです。「聖なる所」とは、神殿とか教会堂とか目に見える建物ではありません。栄光の神様がアブラハムに現れて語ったメソポタミアも聖なる所でしたし、カナンに来る途中にしばらく住んでいたハランでも神様はアブラハムに現れ、語られましたから、神様がともにおられる所、そこが「聖なる所」なのです。そしてその後アブラハムやその子孫に栄光の神様は現れましたから、カナンの地もエジプトの地も「聖なる所」なのです。
4.まとめ
大切なのは、栄光の神様がともにおられることなのです。
私たちも、以前は栄光の神様を知りませんでした。しかし、神様は様々な方法で私たちに語りかけ、現れて下さり、神様の方から私たちの心と思いに働いて下さり、主イエス・キリストを信じるように導いて下さいました。そしてアブラハムと同じように、主イエス・キリストの十字架上で流された血によって神様と新しい契約を結びました。信仰を持ってバプテスマを受けたのです。
ローマ6:3~6でパウロは
私たちは主イエス・キリストを信じる信仰によって神様によって義とされ、神様の子として受け入れられたのです。主イエスは
ステパノを非難している人々は、形式的に、外観だけで「聖なる所」に集まり、礼拝儀式をしています。しかし、心には神様がいないのです。主イエス・キリストの十字架とよみがえりを自分の罪の身代わりのためだ、と信じていないのです。新しいいのちがないのです。彼らは人間の目に見える「聖なる所」に集まっているのですが、人間の目には見えない彼らの心と思いは神様から離れていて「聖なる所」になっていないのです。ステパノはそこを突いたのです。
私たちはどうでしょうか?目に見える教会堂を「聖なる所」としているけれども、自分の内側には「聖霊の宮」がない、「聖なる所」がない人になっていないでしょうか? 「キリストの代価によって買い取られた者として、自分のからだをもって神の栄光を現わし」て行きましょう。お祈りします。