神にとって不可能なことは何もありません。
ルカの福音書1章:26~38節
クリスマス、イエス様の誕生はどのように起こったのでしょうか。
ルカはこのことをテオフィロさんにかなり詳しく説明しています。
1.イエス様誕生の知らせ
ある時、天使が祭司ザカリヤに現れ、彼ら夫婦は齢を取っていたが、男の子を授かる、と告げました。ザカリヤは「マジ?」と信じられなかったので不信仰にも天使に「私はそのようなことを何によって知ることができるでしょうか。」(18)と言いました。
この不信仰のためにザカリヤは口がきけなくなり、話せなくなりました。天使が言った通り、ザカリヤの妻エリサベツさんは妊娠しました。
このようなことが起こってから6カ月後(26)ザカリヤに現れたと同じ天使ガブリエルがマリアに現れました。現れるなり、天使は「おめでとう。恵まれた方。主があなたとともにおられます。」と言ったので、マリアはびっくり仰天し、恐ろしくなりました。
すると天使は30節からにありますように、「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたはみごもって男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」
このようなことを言われたら誰でもびっくりし、戸惑うでしょう。マリアは天使に素直に答えました。
「天使様、そのようなことを言われても、私はまだ結婚もしていませんのにどうして男の子を産むことができるのでしょうか?」すると天使は35節にありますように、「これは人間業ではない。聖霊なる神様の御業です。ですからあなたから産まれる男の子は聖霊による聖なる者、神の子と呼ばれます。」と答えたのです。
更に、天使は、「あなたの親戚のエリサベツさんはあのように年を取っていたのに、今妊娠していて、6カ月になっているのを知っているでしょう。このことでも分かりますように、神様に不可能なことはありません。」これを聞いたマリアは「天使様、私は神様に仕える女奴隷にすぎません。どうぞ神様のおことば通りのことが私の身におこりますように。」と答えるのが精一杯でした。
このようにして聖霊によって妊娠したマリアはイエスを産みました。これがイエス様の誕生、クリスマスです。
2.なぜイエス様は処女マリアから生まれたのか?
神様はなぜこのような方法を用いてイエス様をこの世、私たちの所にお遣わしになったのでしょうか?
それは、
- イエス様は旧約聖書に預言されていた通り、ダビデの子孫として産まれるためでした。27節に「ダビデの家系(32)のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。」とある通りです。
- イエス様は神様でありますが、私たちと同じ人間として普通の女性マリアから産まれた、ということを教えています。マリアは普通の女性でしたが神様に選ばれ、神様の恵みを受けたのです。(30)カトリックの信者はマリアを特別に優れた、神の恵みを人々に与える人とこの聖書の箇所から理解しますが、それは間違った解釈です。
- 神様がメシア、救い主の名前を決めました。それは①イエスです。イエスとは、「主は救い」という意味です。エリサベツから生まれたヨハネは「主の備えをする者」であったのに対して、イエス様はその救いそのもの、救い主なのだ、ということを示しました。
- 32節にありますように、その子、イエス様は、ヨハネ同様(15)①「大いなる者」となり、ヨハネとは違って②「いと高き方の子」と呼ばれます、と天使は告げました。更に彼には③ダビデの王位が与えられ、④とこしえにヤコブの家を治め、支配し、⑤「その支配」は終わることがありません。また、35節にありますように、彼は⑥聖なる者,⑦神の子と呼ばれるのです。
- このように、イエス様は聖霊によって生まれ、ヨハネ同様大いなる者、人間でありながら、いと高き方つまり神様であります。また預言されていたようにダビデのように王様で、それも王の王であり、ヤコブの家即ちイスラエル、神様を信じる者たちを永遠に支配し、治め続ける王様で、その支配は終わることがないお方なのです。つまりこの地上の政治的支配者ではなく、霊的な支配者です。こういう方がマリアから産まれると告げ教えたのです。これらは旧約聖書で預言されていたメシアです。
3.マリアの応答
これに対してマリアはどのように応答したのか、もう一度見てみましょう。
29節に「マリアはこのことでひどく戸惑って、これは一体何のあいさつかと考え込んだ。」とあります。とてもびっくりして恐ろしくなったのです。
34節では、「どうしてそんなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」と答えました。これは天使にどういう方法でそのことをなさるのですか、という質問です。18節を見ると、マリア同様驚き、恐れたザカリヤは「私はそのようなことを、何によって知ることができるのでしょうか。」と答えました。これはザカリヤが天使が伝える神様のことばを信じ受け入れなかったからです。それに対してマリアは天使を通して告げられた神様のことばを疑うことをしませんでした。ですから37節にありますように、「神にとって不可能なことは何もありません。」と言ったのです。この答えを直訳すると、「神の一つ一つのことば(約束)で不可能なことはありません。」となります。つまり、神の約束は私たちには不可能のように思えても、必ずその通りになる、ということです。
更にマリアは38節で「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」と答えました。確かに、天使の告げたことはマリアの理解をはるかに越えていました。しかし、マリアはへりくだり、自分をはしため、女奴隷としました。つまり主人である神様に全てを明け渡したのです。私のご主人である神様の仰ることはどんなことでも「はい」と言って聞き従う以外に道はありません、とマリアは答えたのです。
4.クリスチャンとしての生き方
これはマリアが教えてくれている大切な教えです。クリスチャンとして生きることで一番大切なことは、マリアのこの態度、神様の前にへりくだって、しもべとして自分自身を神様に明け渡すことです。
何か他人に良い所を見せてやろうとか、高く評価されたいとか、自分もまだ捨てたものではないとか、野心や野望を持って生きたり、見栄で生きているのではいけません。私たちは神様の奴隷なのだ、しもべにしか過ぎないものだ、ということをいつも確認して生きていかなければなりません。これは自己を否定することでも、無価値の者とすることでもありません。
主のしもべとして生きていくことは、マリアの模範がありますように、いつも主のことばに従って生きていくと言うことです。それは、38節の「あなたのおことばどおり、この身になりますように。」また45節に「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は幸いです。」とう態度です。もう少し具体的に言いますと、
主のしもべとしての生き方は、
- 聖書を全生活の基準として生きることです。
それには聖書を読み、そのことば、教えに従って生きることです。個人生活で聖書の約束、命令、勧めなどをきちんと実行していくことです。また、何かどうしてよいか分からないことがあったら、いつも聖書の基準に従って考えることです。
このように聖書を実行していく者になるのであって、「聖書には良いことばがあるよ」と聖書を格言集として読むのではありません。また、キリスト教の解説者、評論家になるのではありません。
- 聖書を神のことばとして個人生活にだけ当てはめるのではなく、客観的な真理として信じ受け入れていくことです。
私たちは2千年前には生きていませんでした。ですから、イエス・キリストをこの地上で目に見える形で見たことはありません。十字架上のイエス・キリストを見たことがありません。三日目に死からよみがえられたイエス様も見たことがありません。しかし、私たちはこれらのことが歴史上に実際に起こった事実であることを聖書のことばより確信し、信じています。
5.まとめ
なぜクリスマスをお祝いするのでしょうか?私たちは聖書のみことばを真実であると信じているからです。これから起こることも、私たちはまだ見てはいませんが、聖書のことば通り起こることを信じています。すなわち、私たちが天で主イエス・キリストにお会いすること、永遠のいのち、私たちが新しいからだをもってよみがえること、主イエスが再びこの地上に来られることを信じています。
マリアのように、私たちも「主よ、私たちはあなたのはしため、しもべです。どうぞあなたのおことばどおり、この身になりますように。」と言える者になりましょう。私たちの頭ですべてが理解できないかもしれません。しかし、ザカリヤのように不信仰に陥るのではなく、マリアのように「神にとって不可能なことは何もありません。」と信じる者になりましょう。「不可能なこと」とは、新改訳聖書の脚注の説明のように、「語られたことば、語られた事柄」という意味ですから、38節の「あなたのおことば」神様の約束ということです。つまり、エリサベツがマリアに言ったように「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人はなんと幸いなことでしょう。」(45)
このクリスマスにお生まれになったイエス・キリストが自分の罪からの救い主であり、自分の人生を祝し導いて下さる神様であることを聖書のことばどおり信じ従い、クリスマスをお祝いしましょう。お祈りします。