日本福音キリスト教会連合

流れのほとりNO.24

 
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2022年4月から「上水めぐみキリスト教会」の牧師。 サイクリングやジョギングが趣味。

私のダジャレのはじまり

このホームページの自己紹介にもあるとおり私はジョークが好きで、よく

”ダジャレ”を言います。思い出してみると、子供の時、父が”ダジャレ”の面白さを教えてくれたのが始まりのようです。

「直、今日、ホームで急に電車が入ってきて帽子が飛ばされそうになったのだ、友人にハットしたよ、と言ったら、牧野さん、そういうことは危険です。防止(帽子)してください、と言われた、と笑いました。」

ダジャレってなあ~に?

“ダジャレ”は同じ又は似た発音のことばで違う意味のことばを組み合わせて笑う「言葉遊び」です。ある人は”ダジャレ”を言うことを「ふざけている」と取り、会話に”ダジャレ”を入れると、不真面目だ、と怒る人がいます。しかし、時と場合を考慮しなければなりませんが、”ダジャレ”は決して不真面目ではなく、コミュニケーションをスムーズにする「潤滑油」の役割を果たすことがしばしばあります。

どの言語でもこのような言葉遊びがあります。私がタイ語を学んだ時もタイ語の”ダジャレ”を集めて、それを言ってみて、タイ人に通じて笑いが取れるように努力しました。

聖書の中のダジャレ

実はキリスト教の聖書にはこのような「言葉遊び」(多くの牧師たちは”ダジャレ”とは言いませんが、私は”ダジャレ”だと思っています。)が沢山出てきます。ところが私たちは聖書で使われているヘブル語やギリシャ語を知りませんから、せっかく神様が”ダジャレ”を書いてくださって教えを強調しているのにそれが分からないのです。”ダジャレ”を分かるためだけでもヘブル語やギリシャ語を学んでみる価値があるかもしれません。こんな私の考えは杞憂です。なぜなら聖書を前後関係の中で日本語文法に従って正しく読めば、神様の真意は分かるからです。

しかし、感謝なことに日本語の聖書を翻訳してくださった聖書学者の先生方はとても理解のある方々で、日本語の聖書には、「ここはヘブル語の言葉遊び,掛けことばになっていますよ。」としるしを付けて分かるようにしてなっているのです。新改訳聖書は脚注にそれが説明されていますが、新共同訳は本文中に括弧でそれを示しています。例を挙げてみます。

新共同訳聖書の創世記2章23節は、

「人は言った。『ついにこれこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉、これこそ、女(イシャー)と呼ぼう、まさに男(イシュ)から取られたのだから。』」
となっています。同じ個所を新改訳聖書2017では、

「人は言った。『これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから。』」
とあり、「女」「男**」と*しるしを付けて、脚注を見るように示しています。脚注を見ると、*へ 「イシャ」**へ「イシュ」とあり、女と男という二つのことばの発音が似ていて掛けことばになっていることを教えています。

このような括弧や*印を捜しながら聖書を読んでいくと「あっ、ここにも”ダジャレ”があった」と聖書の中に新しい発見があり、楽しく読めます。もう一つ、私が説教の中で使った”ダジャレ”の箇所を紹介しましょう。それはエレミヤ書1章11節のことばです。

「主のことばが私にあった。『エレミヤ、あなたは何を見ているのか。』私は言った。『アーモンドの枝を見ています。』」

神は若者であったエレミヤを預言者として召しました。しかし、エレミヤは「私は若輩でそのような任に耐えられません。」と断るのです。すると神はアーモンド=シャケデと、ショケデ(見張り)を掛けことばに使って、神の「見張り人」となるように迫ったのです。

こんな真剣な時にも神は”ダジャレ”を言って私たちに神のみこころを伝えられるのです。

“ダジャレ”って素晴らしいことばの技術だと思いませんか?

 

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