差別、偏見からの解放
使徒の働き10章1~23節(聖書本文はこちら)
1.クリスチャンの自由
クリスチャンになって実感する喜びの一つは、コンプレックスからの解放。自由にされたことの喜びです。聖霊によって新しく生まれて、新しいいのちに生きる、全く新しい生き方から出てくる自由と喜びです。
主イエス・キリストが私の罪を赦してくださったということは、私がそれまでの人生で真の神様を知らないで、自分中心に、自己中心に生きていた罪を赦して下さった事を頭で知り、自分の心で知り、自分の生き方の中で体験し、知った時に味わう喜びでもあります。自分中心の考え、行動はしばしばコンプレックスに結び付きます。自分を受け入れられないで、自分はダメだ、と思っている人は、ともすると他の人を妬んだりしてしまいます。自分は優れている、と思っている人は、ともすると他の人を蔑んだり、バカにしたりします。初めは小さな事だったのに、だんだんそのような思いや態度が重なり、固まってくると、差別になり、偏見になってしまうのではないでしょうか?
日本で社会問題になっている差別の一つに「部落問題」があります。同じ神様のかたちとして創造された尊い人間なのに長い日本の歴史の中で「部落民」というグループにさせられ、差別を受けてきています。「部落民」は、一定の地域に住まわされています。教育の面でも差別され、就職の面でも、結婚の面でも差別され、社会的に低く扱われています。
旧約聖書の教えでは、動物を殺したりする事は汚れたこととされていました。ですからユダヤ人は動物を殺してその皮をなめし、皮製品にするような仕事をする人は汚れているとしていました。日本人にも同様の考えがあります。
9:43を見ますと、ペテロはヤッファと言う地中海沿岸の都市で福音伝道し、使徒の教えを教えていた時に、「シモンという皮なめし職人のところに滞在し」ていました。普通のユダヤ人でしたら絶対にこのような事はしません。しかし、ペテロはイエス・キリストを信じて新しく生まれたクリスチャンでしたから、皮なめしの職人は汚れていると言う偏見から解放されていました。そのペテロに神様は、クリスチャンは、「差別や偏見からの解放」されてキリストにあって自由になっていると言う、全く新しくされた生き方を更にはっきりと10章と11章を通して教えられました。
2.神様は「クリスチャンの自由」・「差別と偏見からの解放」をどのように教えられたでしょうか?
1)神様は人を選び、人を通して教えられました。
神様が選び、用いた人はコルネリウスとペテロです。コルネリウスは、ユダヤ人ではありません。カイザリアという地中海沿岸の都市に住んでいたローマ帝国のイタリア隊と言う軍隊の兵士で、百人隊長でした。百人隊長と言うのですから、彼が部隊長で、彼の下に百人の兵士が付いていたのです。2節によると、彼はユダヤ人以外の人、異邦人でしたが、「敬虔な人で、家族全員と共に神を恐れ」ている人でした。「敬虔な人」とは、彼がユダヤ教信者になった、ということではなく、「神を恐れる人々」と呼ばれていた異邦人たちで、真の神様を信じて、神様を礼拝しているが、ユダヤ人ではない人々です。彼らはエルサレムから散らされて行ったクリスチャンたちと交わりを持つようになっていたようです。コルネリウスは神様を恐れて礼拝をささげているだけではなく、ユダヤ教徒たちが推奨する、施しと祈りをいつもささげていた人でした。彼もタビタのように貧しい人々にお金を寄付し、助けていた人です。神様はそのような人を用いられたのです。
2)神様は祈りに答えて働かれました。
コルネリウスはいつも午後3時の祈りをささげていました。毎日きちんと祈りの時間を定めて祈っている人でした。彼が午後3時の祈りをしている時に幻を見たのです。神様はその幻を通して語り、教えました。コルネリウスの祈りと施しは神様の御前に上って、覚えられていたのです。(4)彼は自分の祈りがすぐに応えられているとは感じていなかったでしょうし、実際すぐに祈りの答えが与えられてはいなかったかもしれません。また、神様の答えは自分が考えていた事のようでなかったかもしれません。神様はコルネリウスに5節にありますように「さあ、ヤッファに人を遣わして、ペテロと呼ばれているシモンと言う人を招きなさい。」と言われました。コルネリウスは心の中で戸惑ったことでしょう。ペテロなんていう人は知らないし、ヤッファはカイザリアから50キロも南に行かなければなりません。この話ほんとうかな~、と思ったかもしれません。しかし、主は私たちの思いを越えて祈りに答えて下さり、差別と偏見から解放してくださいます。
3)神様との親しい関係にある人を用いられました。
幻の中で、御使いがきて、彼の個人名を呼んだのです。「コルネリウス」このように個人名を呼ばれるのは特別なことです。イエス様の誕生の時も、天使は「ダビデの子ヨセフよ」(マタイ1:20)と呼ばれ、「恐れる事はありません、マリア」(ルカ1:30)と呼ばれました。コルネリウスは恐れながら「主よ、何でしょうか。」と応答しました。旧約聖書のサムエルもそうでしたが、神様に親しく呼ばれた時には「お話し下さい。しもべは聞いております。」(サムエル記第一3:10)と、素直に応える事が大切です。ヘブル3:7、8節と15節でも繰り返して言われているように、「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。」ということです。
4)信仰を持って御声に従う人を用いられました。
コルネリウスは百人隊長ですから権威があります。その権威をもって彼は二人のしもべと彼がよ~く知っている「敬虔な」神様を恐れている兵士を一人自分の使者として派遣しました。これは神様の御声に従うのですから信仰の問題である事を彼は察知して「敬虔な、神を恐れている兵士」を自分の使者としたのです。差別と偏見から解放されるためには、いつも霊的な判断、つまり聖書になんと教えているかを知り、聖書の判断に従う信仰が大切です。
5)神様は一人の人ではなく、複数の人を用いて神様の御心を示し、教えられました。
一人のクリスチャンがこう考えるからこれが神様のみこころだ、と言ってそれに従って進む事には危険があり、気を付けなければなりません。神様はみこころを複数のクリスチャンに同じ事を示され、それがみ心であると言う確信を私たちに与えてくださいます。ここでもコルネリウスだけではなく、神様はペテロも用いられました。コルネリウスによって派遣された三人はヤッファにやってきました。彼らがペテロの泊っているシモンの家に着く頃に、神様はペテロに語りかけられました。ペテロは昼食の前に家の屋上でお祈りをしていました。コルネリウスは祈っている時に幻を見ました。同じように御使いは夢の中でペテロに語りかけたのです。ペテロは恐ろしい夢を見たのです。11節~12節にありますように、夢の中で大きなシーツのような布が天から降りて来たのです。見るとその中には「あらゆる四つ足の動物、地を這うもの、空の鳥がいた。」のです。そして声が聞こえて来たのです。「ペテロよ、立ち上がり、屠って食べなさい」と言う声です。これらの物は旧約聖書で汚れている動物として食べてはいけない、と禁じられている物だったのです。ですからペテロはすぐに「主よ、そんなことはできません。私は未だ一度も清くない物や汚れた物を食べた事がありません。」と答えました。するとどうでしょうか。13節を見てください。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」と神様は言われたのです。分かりの悪いペテロ、以前イエス様の事を三回知らないと言って拒絶したペテロに主は三回同じ幻を見せたのです。コルネリウスだけではなく、神様はペテロにも同じみこころを示されたのです。
6)神様はみこころを示す時に「神様のタイミング」で示して下さいます。
ペテロがシモンの家の屋上で夢を見て神様からのメッセージを聞いたその時に、コルネリウスからの遣いの三人がシモンの家に到着しました。神様はこのように私たちが疑うことが出来ないような絶妙のタイミングでみこころを教えてくださいます。
皆さん、是非ジョージ・ミューラーの伝記を読んでみてください。19世紀に英国で孤児院を経営していたクリスチャンです。彼は絶対に人々に献金や献品のアピールをしませんでした。ただ神様にのみ祈り、願い求めたのです。神様が孤児の必要をご存知で、神様がその必要を満たして下さると信じて孤児院をしていました。神様が祈りに答えて必要を満たし続けて下さった多くの例が書かれていますが、一番有名な話は、ある朝、お金がなく、食物もなかった日の事です。ジョージ・ミューラーは子どもたちと共に食堂に座り、空っぽのお皿とカップを前に祈っていました。その時に玄関のベルが鳴ったのです。一人の男の人が「トラックが故障してしまい、動けなくなった。積んでいるミルクと食料を食べてくれないか。」と言う申し出だったのです。
多くの教会で教会の土地を買ってその代金の支払の最後の日に必要額が満たされたという証しを聞いた事があります。神様は絶妙のタイミングで私たちに人間の力ではなく、人間の考えではなく、神様に信頼し、神様のみこころに従わなければならない事を教えてくださいます。
7)御霊の導きと教えに従うことです。
19~20節を見てください。「御霊が彼(ペテロ)に言われた。「見なさい。三人の人があなたを訪ねて来ています。さあ、下に降りて行き、ためらわずに彼らと一緒に行きなさい。わたしが彼らを遣わしたのです。」
私たちだったら、「あなた誰?」と、まず考えます。よく見てみたら交わってはいけない禁止されている異邦人が三人訪ねて来たのです。会っても平気かなぁ~、とためらいます。人間的に考えたら、何で私の名前を知っているのだ、怪しい奴らだ、と警戒したりしたことでしょう。しかし、ペテロは御霊の導き、み声に聞き従ったのです。私たちも聖霊に満たされて、聖霊の導きのもとに聖書のみことばを読み、聖書が何と教えているかを知り、その教えに従うことが大切です。教会で、ず~とこのようにして来ているから今年も、今回も同じにするとか、クリスチャンたちが皆そうしているからそれに従う、というのではなく、聖霊の導きのもとに聖書の教えに従うのです。聖書を読む時に「聖霊様、これから聖書を読みます。聖書の教えが分かるように教えてください。聖書を通して神様のみこころを、私が何をすべきか教えてください。」と祈って下さい。又、聖書を読んで、そこに書かれている事を思い巡らして下さい。聖霊が私たちに働き、そのみことばを通して語り、教えて下さいます。
3.結び
私たちはクリスチャンになる前は日本の伝統や習慣などからやってきた色々な考えや行動、習慣、習俗、迷信に従って来ました。そのほとんどは真の神様を認めない文化から来ています。そのような考えに基づいた様々な差別と偏見が社会の中にあります。クリスチャンとして生きる時に大切な事は、それらの事を今までやってきたから、と何も考えずに行うのではなく、新しく造られた者として一つ一つのことを聖書の教えに照らし合わせて調べて、神様に喜ばれる考え、それに基づいて行動をするように変えて行くことです。その差別と偏見からの解放のために、神様は人を用いられます。その人は、ある時は牧師かもしれません。ある時はクリスチャンの友達かもしれません。そのような人を通して神様は聖書の教え、差別をしてはいけない事、偏見を持ってはいけない事を示して下さいます。また、差別や偏見が無くなるように祈る祈りに神様は答えてくださいます。それには私たちが神様といつも親しく交わっている事が大切です。日曜日だけクリスチャン、後はイエス様と関係ない生活をしているような人ではダメです。又、神様のタイミングを知ることが大切です。神様の御声を聞いた時に御声に聞き従うのです。そして聖霊によって新しく生まれて新しいいのちに生きる者として聖霊に満たされ、聖霊の実、愛、喜び、平安、忍耐、親切、善意、誠実、柔和、自制を結ぶ者となっていきましょう。祈ります。
彼は敬虔な人で、家族全員とともに神を恐れ、
ある日の午後三時ごろ、彼は幻の中で、
彼は御使いを見つめていたが、恐ろしくなって言った。「主よ、
さあ今、ヤッファに人を遣わして、
その人は、シモンという皮なめし職人のところに泊まっています。
御使いが彼にこう語って立ち去ると、
すべてのことを説明して、彼らをヤッファに遣わした。
翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころ、
彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。ところが、
すると天が開け、大きな敷布のような入れ物が、
その中には、あらゆる四つ足の動物、地を這うもの、
そして彼に、「ペテロよ、立ち上がり、屠って食べなさい」
しかし、ペテロは言った。「主よ、そんなことはできません。
すると、もう一度、声が聞こえた。「神がきよめた物を、
このようなことが三回あってから、
ペテロが、今見た幻はいったいどういうことだろうか、
声をかけて、「
ペテロは幻について思い巡らしていたが、御霊が彼に言われた。「
さあ、下に降りて行き、ためらわずに彼らと一緒に行きなさい。
そこでペテロは、その人たちのところに降りて行って、言った。「
すると、彼らは言った。「正しい人で、神を恐れ、
それでペテロは、彼らを迎え入れて泊まらせた。
翌日、ペテロは立って、彼らと一緒に出かけた。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会