日本福音キリスト教会連合

聖霊に満たされ、主イエスの模範に従う

 
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2022年4月から「上水めぐみキリスト教会」の牧師。 サイクリングやジョギングが趣味。

使徒の働き7:44~60

聖書は最下段です。

ステパノとクリスチャンたちは、最高法院のユダヤ人たちに非難されています。「モーセと神を冒涜することばを語」(6:11)った。「この人は、この聖なる所を壊し、モーセが私たちに伝えた慣習を変える」と非難されましたが、これは誤解です。それに対してステパノは反論しています。まず、アブラハムの例を出して、次にヨセフの例、そしてモーセの例を出して最高法院のユダヤ人たちが間違っていることを指摘しました。彼らのエルサレムの神殿が聖なる所で神様はそこにおられると言う神殿信仰は、間違っている、と指摘したのです。

今日の箇所では、ステパノは彼らが最も尊敬し、誇りに思っている先祖、ダビデの例を挙げて説明します。

1.ステパノの反論

真の神様は神殿の中に納まる方ではない

アモスを初め、ホセアからマラキまで12の小預言書で預言者たちは、あなた方の先祖たちに真の神様に立ち返るように口を酸っぱくして言いました。しかしあなた方の先祖は預言者を通して言われた真の神様のことばに聞き従いませんでした。その結果エルサレムはバビロンによって破壊されて更地になってしまいました。もちろん神殿も壊されてなくなりました。その上多くの人は殺され、生き残った者も捕虜としてバビロンに連れて行かれてしまいました。(43)

ステパノは言います。皆さん、よく考えてみてください。今、あなたがたが礼拝している神殿とは比べ物にならないあの立派な神殿は壊されて跡形もなくなりましたが、あれはいつ出来たのでしょうか?モーセがイスラエルの民を率いて荒野にいた時には神殿はありませんでした。有ったのは「あかしの幕屋(大きなテント)」でした。そこでイスラエルの民は神様を礼拝したのです。それはモーセやイスラエルの民が自分の頭で考え出したのではなく、神様がモーセにこのように造れと言われた通りに造ったテントです。(44)テントですから、イスラエルの民が荒野を旅して移動している時には、テントをたたみ、担いで行ったのです。一か所に固定された礼拝所ではなかったのです。モーセに導かれたイスラエルの民は、モーセの後継者、ヨシュアに導かれて神様の約束の地、カナンの地に入り、その地を所有しました。そしてそこに定着したのです。その後にダビデ王様が起こされました。ダビデは王国を強くし、拡大し、経済的にもとても豊かな国としました。しかし、ダビデ王は神殿を建てませんでした。彼は続けてテントで真の神様を礼拝したのです。(46)

誰が神殿を建てたのですか?ダビデの息子ソロモン王です。47節に「ソロモンが神のために家を建てました。」とあるとおりです。ここで48節のことばに注目してください。

「しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。」

とあります。これはソロモン王が神殿を建て、完成式の時に言ったことばです。

Ⅱ列王記8:27でソロモン王はこう言っています。

「それにしても、神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。」

神殿を建てたソロモンだけではありません。預言者イザヤを初め、多くの預言者たちも言っているではないですか。真の神様は神殿の中にいるのではない、一か所に留まっているのではない、そうではなくて真の神様を信じて、神様の生きたみことばに聞き従っている人とともにおられるのです。49節から50節にイザヤ書66章のことばが引用されています。
「真の神様は天にも地にも、全宇宙におられる偉大なお方です。それなのにこんな小さな神殿の中に神様が入って、そこで休憩されるだろうか?いくら人間の目には立派で豪華に見えてもこれらは人間の手で造った物ではないか。」と預言者たちは言っているにもかかわらず、あなた方の先祖は51節にありますように「うなじを固くする」つまり強情になって預言者たちのことばを聞こうともしないで、「心と耳に割礼を受けていない人」になってしまいました。
神様はアブラハムと契約を結んだ時に契約のしるしとして人は割礼を受けました。「心に割礼を受けていない人」とは、心を開き、神様と親しく交わると言う約束のしるしを受けていない自己中心の心の持ち主のことです。あなたがたの耳は神様のみ声を聞き、従います、と言う約束をしていない耳、強情な耳になってしまって、神様の霊、聖霊に逆らっているのです。

先祖と同じ過ちを繰り返すべきではない

皆さんも先祖たちと同じではないですか、とステパノは問いかけます。五旬節の日に神様は私たちに聖霊を注いでくださいました。私たちは聖霊によって力を受け、あなたがたが十字架に付けて殺したイエスは神様の御子であり、神様は御子イエスを三日目に死からよみがえらせ、私たちをこのことの証人としたのです。ところがあなた方は聖霊の働きを認めず、受け入れもしません。私たちの証しも聞き入れません。よく考えてみてください。あなた方の先祖たちで神様が立てた預言者たちを迫害しなかった先祖たちがいましたか?預言者たちは神様が私たちのために「正しい方」救い主、メシアを遣わす、と預言したのです。それなのにあなた方の先祖たちは預言者たちを殺してしまいました。

皆さんも同じではないですか。神様が「正しい方」イエスを遣わして下さったのに、そのイエスを殺してしまったではないですか。

あなたがたの先祖こそモーセの律法に聞き従わなかったのです。モーセは神殿を建てないでテントで神様を礼拝したのです。あなた方の先祖はソロモンの神殿に神様がおられると信じて、神殿に頼り、聖霊なる神様によって語る預言者たちのことばに従わず、頼らずに神様に逆らったのです。その結果、バビロンによって神殿も国も破壊されてしまいました。バビロンに捕虜として連れて行かれたのです。

あなた方は私たちがモーセの律法に逆らっている、モーセの慣習を変えている、と非難しているけれども、あなたがたはもっとひどいことをしています。あなたがたは、預言者たちが預言していた「正しい方」が預言どおりに来られたのに、その方を受け入れず、「この方を裏切る者、殺す者となりました。」(52)この「正しい方」こそ、主イエス・キリストです。

このようにステパノは最高法院のユダヤ人たちの非難に答えたのです。

2.最高法院のユダヤ人たちの反応

すると彼らはどうしたでしょうか?

ペンテコステ(2章)の時は、人々は「私たちはどうしたらよいでしょうか」とペテロに言い、自分たちの罪を悔い改めたのです。

ところが5章(5:33)では「彼らは怒り狂い、使徒たちを殺そうと考え」、悔い改めませんでした。ここでも「人々ははらわたが煮え返る思いで、歯ぎしりして」悔い改めません。ステパノの話が聞こえないように耳をふさいで、彼に向かって殺到したのです。そしてステパノを町の外に連れ出して、石をぶつけて殺したのです。なんと恐ろしいことではないでしょうか。

3.不当な非難の嵐の中でのステパノの姿勢

それに対してステパノはどうしたでしょうか。

55節を見てください。

「しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、『見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。』と言った。」
のです。

ステパノは「聖霊に満たされ」ていました。「うなじを固くする、心と耳に割礼を受けていない人たち」「聖霊に逆らってい」る人たちはステパノに対して怒り狂った獣のようになっています。

対照的にステパノは聖霊に満たされて静かに神様を見上げています。聖霊の実は、愛、喜び、平安です。ステパノの態度は、私たちに反対する人たち、私たちを憎み嫌う人たちに対する態度を私たちに教えているのではないでしょうか。私たちも聖霊に満たされて、愛と喜びと平安をもって静かに対応するのです。ステパノは「じっと天を見つめてい」ました。

そうです。私たちも逆境の中で、反対や迫害の中で「天を、神様を見つめ」るのです。するとどうでしょうか。父なる神様とその父なる神様の右に立っているイエス様が見えたのです。それは素晴らしい栄光に輝いておられました。私たちも同じです。私たちの信仰に反対し、罵倒し、怒鳴り、脅し声の中でも、イエス様を見上げ、見つめるのです。

ステパノはどういう光景を見たのでしょうか?「天に人の子、イエス様が父なる神の右に立っておられる姿」を見たのです。私たちはいつも使徒信条で「イエス様が天に上り、全能の父なる神の右に座したまえり」、と告白しています。ところがステパノが見たイエス様は座っておられるのではなくて「神の右に立っておられる」(55,56)のです。このことについていろいろな解釈がありますが、イエス様は人々の前でイエス様をキリストであると告白したステパノを立ちあがって迎え、父なる神の前に神のしもべステパノの信仰を伝えている、と理解できるでしょう。

私たちがこの地上の生涯を終えて天に行く時も同じです。イエス様が私たちを立って迎えて下さり、私たちの信仰を父なる神に告げてくださるのです。

このステパノのことばを聞いてユダヤ人たちは、怒り狂い、彼を石打ちにしました。ステパノは投石に打たれながら、神様に目を向け祈りながら死にました。石に打たれて激しい痛みの中で「主イエスよ、私の霊をお受け下さい。」と祈ったのです。

これはイエス様が十字架上で言われたことばと似ています。ルカの福音書23:46(p.171)を読んでみましょう。

「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。』」

これはイエス様の最後のことばでした。しかし、ステパノの祈りはこれで終わりませんでした。ステパノは続いて60節にありますように、ひざまずいて大声で祈りました。

「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」

と言いました。これもイエス様の十字架上のことばに似ています。ルカの福音書23:34(p.170)でイエス様は、

「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているかがわからないのです。」
と祈られました。

ステパノは十字架のイエス様を思い、見ていました。そしてイエス様に祈りました。自分の霊を神様に委ね、迫害する者を赦す祈りを捧げました。

私たちも同じです。いつも十字架で苦しまれたイエス様を見つめていましょう。イエス様の模範に従っていきましょう。イエス様と同じように祈りましょう。

ですからペテロは第一ペテロ2:20~25(p.468)で、

「キリストも、あなた方のために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなた方に模範を残された。キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても,ののしり返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された。あなた方は羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分の魂の牧者であり、監督者である方のもとに帰った。」

と書いています。私たちがクリスチャンだからと、ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、脅すことをせず、正しく裁かれる方(主イエス・キリスト)に任せて生きていきましょう。ステパノはそのように生き、初めての殉教者となりました。私たちも聖霊に満たされて、主イエスの模範に従っていきましょう。お祈りしましょう。

 

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私たちの先祖たちのためには、荒野にあかしの幕屋がありました。それは、見たとおりの形に造れとモーセに言われた方の命令どおりのものでした。
私たちの先祖たちは、この幕屋を受け継いで、神が自分たちの前から追い払ってくださった異邦の民の所有地に、ヨシュアとともにそれを運び入れ、ダビデの時代に至りました。
ダビデは神の前に恵みをいただき、ヤコブの家のために、幕屋のとどまるところを求めました。
そして、ソロモンが神のために家を建てました。
しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。
  『天はわたしの王座、
  地はわたしの足台。
  あなたがたは、わたしのために
  どのような家を建てようとするのか。
  ──主のことば──
  わたしの安息の場は、いったいどこにあるのか。
  これらすべては、
  わたしの手が造ったものではないか。』
 うなじを固くする、心と耳に割礼を受けていない人たち。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです。
あなたがたの先祖たちが迫害しなかった預言者が、だれかいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって告げた人たちを殺しましたが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。
あなたがたは御使いたちを通して律法を受けたのに、それを守らなかったのです。」
 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりしていた。
しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、
「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言った。
人々は大声で叫びながら、耳をおおい、一斉にステパノに向かって殺到した。
そして彼を町の外に追い出して、石を投げつけた。証人たちは、自分たちの上着をサウロという青年の足もとに置いた。
こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」
そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 

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