主を恐れて生きる
使徒の働き2章 (※下に流れる聖書の言葉は、マウスを置くとストップします)
皆さん、新年明けましておめでとうございます。2021年の最初の主日礼拝です。今年の教会の目標聖句として私が選んだのは、使徒9:31の一部で「主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった。」です。この聖句から4つのことを心に留めて1年信仰生活、教会生活をしていきたい、と思っています。
- 主を恐れること、
- 聖霊に励まされること、
- 前進し続けること、
- 信者の数が増えることの4つです。
これらの意味について、順次、礼拝説教でお話しして行きます。今朝は「主を恐れる」ということを使徒の働き2章の所から学びましょう。
1.主を恐れること
日本の多くの教会、特に福音的と言われる教会の礼拝式では、余り主を恐れると言うことが強調されません。礼拝式が何か交わりを主目的とした集会のようになっています。礼拝に集まった信者たちは楽しく会話をして過ごします。賛美も説教も楽しいことが強調されがちです。しかし、カトリック教会や聖公会の礼拝に行きますと雰囲気が全然違います。教会堂に入ると静かで、喋る人も少なく、おごそかな雰囲気が漂っています。皆さんの中で西洋のこのような教会に行ったことがある方はその様子を容易に想像することができるでしょう。これらの教会の礼拝では神様を恐れること、神様の前に厳粛になることが強調されているからでしょう。私は交わりも大切ですし、厳粛さも大切だと思っています。忘れてはならないことは、私たちは教会に来て兄弟姉妹と共に神様の前に出て、神様を礼拝するのです。
大分時間が空いてしまいましたが、使徒の働き2章のみことばを説き明かします。
イエス様は昇天される前に、弟子たちにエルサレムに留まって父の約束を待ちなさい、と命令されました。そこで弟子たちは、故郷のガリラヤに戻らずにエルサレムに留まっていました。そして五旬節のお祭りになりました。その時に父なる神様は約束を実行されました。それは聖霊を弟子たち一人一人に注ぐと言うことでした。聖霊を注がれた弟子たちは一人一人が違った外国語で「神の大きなみ業を語り」(11)ました。それを聞いた五旬節でエルサレムに来ていたユダヤ人たちは驚きました。なぜなら弟子たちはガリラヤから出て来た田舎者で普通はガリラヤ弁を喋っているのに、外国語をそれも完全な外国語を話しているからです。それを聞いた人々は「一体これはどうしたことか」(12)と驚きました。そうするとクリスチャンたちのことを悪く思っている人々が「あいつらはぶどう酒に酔っているのだ」と言ったのです。それに対して弟子のリーダーであるペテロは他の弟子たちと共に立ち上がって「声を張り上げて」(14)言ったのです。これは聖霊の働きです。ペテロは聖霊を受け、間違った考え、イエス・キリストの悪口を言う人たちに毅然として立ち上がって反論したのです。
この不思議な現象は、人間の働きではなく、神様の働きである事を話ししたのです。彼らが外国語で神様の大きなみ業について話すことが出来たのは、父なる神様が約束通り、弟子たちに聖霊を注いでくださったからだ、とペテロは話しました。この聖霊が土砂降りの雨のように注がれることは旧約聖書のヨエル書で預言されていたことが実現したのです、とペテロは説教したのです。
それはどのように実現したのでしょうか?22節にありますように、ペテロは言いました。神様はあなたがたが田舎者と見下げているナザレ人であったイエス様によって神様の力が現れたパワフルな奇蹟の数々、病人の癒し、これは神様のみ業に違いないと分かる不思議な御業を行って、イエス様が預言されているメシヤ・救い主であることを皆さんに示しました。ところが、あなたがたはイエス様が罪のないにもかかわらず罪として、ユダヤ人には禁止されている十字架刑にユダヤ人ではない異邦人によってイエス様を殺させてしまいました。しかし、24節にありますように、「神はイエスを死の苦しみから解き放ってよみがえらせました。大体この方が死につながれていることなど、あり得ないからです。」このことも実はあなたがたがよく知っている旧約聖書のそれもあなたがたが尊敬するダビデ王が書かれた詩篇に預言されて言われていることでした。
ペテロは続けて言います。このように神様がはっきり教えていることを無視して36節にありますように、あなたがたは、イエス様を十字架につけて殺したのです。旧約聖書の教え通りに物事が起こって来ているのです。同様に、神様は約束通り、聖霊を私たちに注いでくださったのです、とペテロは大声で語りました。
するとどうでしょうか?37節にありますように、「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロと他の使徒たちに『私たちはどうしたらよいでしょうか』と言ったのです。なぜこのようなことを言ったのでしょうか?それは彼らの心の中に「主を恐れる」思いが出てきたからです。
2.イエス様が神様であることを知る
私たちも同じです。私たちがイエス様の行ったこと、教えられたこと等を聖書のことばを通して知り、イエス様が神様であることを知る時に、私たちの心の中に聖霊が働かれ、私たちの罪を示します。そして私たちに神様を恐れる心、神様を恐れる思いが出て来ます。ここのユダヤ人たちと同じように「私たちはどうしたらよいでしょうか?」と言う質問が出て来ます。ペテロは何と答えたでしょうか?
38節を見てください。「それぞれ罪を赦して頂くために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます。」
「主を恐れる」ことは、まず私たちが神様は罪のないきよいお方であることを知り信じることから出て来ます。
3.罪を赦して頂くための悔い改め
次に自分がイエス・キリストを十字架に付けたのだ、イエス・キリストが十字架で死んだのは自分の罪を赦すためだった、と分かり、清い神様の前に自分はどんなに汚れたものであるかが分かと、主を恐れます。自分の罪の数々が見えてきます。これらの罪が赦されなければ自分は神様によって裁かれ滅びると言うことが分かるようになります。ですから、ペテロは「罪を赦して頂くために悔い改めなさい」と言います。「悔い改める」と言うのは方向を転換すると言うことです。今まで神様に聞き従わないで生きて来た自分、自分中心の考えや行い、神様を無視してきた生き方を方向転換することです。自分の罪の数々を神様の前に告白し、捨てて、主イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとして十字架について死んでくださり、私たちの罪を贖ってくださったことを信じ受け入れます。自分中心の道から方向転換して神様を、イエス様を中心に置く生き方に方向を変えることが悔い改める、と言うことです。イエス様を信じると、私たちは今迄の自分の生活の一つ一つを吟味し、聖書の教えに従って考え直して変えていきます。私たち日本人にはこれが大変なことです。なぜなら私たちが生活する一般社会や家庭はまことの唯一の神様を信じない、認めない社会だからです。その社会にある習慣や考えはまことの神様を無視して、自分たち人間中心に考え出し、作られた習慣です。聖霊によって私たちがクリスチャンとして主に従って行く時にしなければならないことには、まことの神様を認めない習慣や行い、この世の考えを改めていくことが含まれます。パウロはそのことを「十字架につける」と言います。ガラテヤ書5:24には「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望と共に十字架につけたのです。」又6:14には「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。」とある通りです。また、第一コリント10:31には「あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現わすためにしなさい。」と教えられています。
4.バプテスマを受け、聖霊をいただく
次にペテロは、「イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」と言いました。
主を恐れる者になったということを自分だけで納得しているのではなく、バプテスマを受けて神様と人々の前に自分がイエス様を信じて、イエス様に従っているものなのだ、と公に表すことが大切です。イエス・キリストに逆らい、十字架に付けたユダヤ人たちが、自分の罪を告白し、悔い改めてイエス様の名前によって、イエス様の権威に従ってバプテスマを受けたのです。自分はイエス様につながっているものなのだ、イエス様を愛し、敬虔な者として従って行くのだ、と言うことを公に表したのです。その時に神様は私たち一人一人に「賜物として聖霊を」くださるのです。つまり聖霊なる神様が私たちの中に宿っている、住むようになるのです。この聖霊なる神様が私たちに父・子・聖霊の神様を理解し、信じ従うことができるように新しいいのちを与えてくださるのです。聖霊なる神様が私たちに聖書のみことばを理解出来るように助けてくださり、主イエス・キリストの愛、偉大さ、きよさ、素晴らしい輝きを私たちに現わしてくださいます。また、1:8にありましたように、私たちをキリストの証人として人々に証しをする力を与えてくださいます。このようにして私たちは「主を恐れて」敬虔なクリスチャンとして生きていくことができるのです。日々、聖霊の助けを求めて「主を恐れて生きていきましょう」。お祈りしましょう。