あなたのエチオピア人は誰ですか?
使徒の働き8章25~40節(聖書本文はこちら)
しばらく使徒の働きから説教しませんでしたが、今朝は再び使徒の働きに戻ります。
クリスチャンたちは、激しい迫害のためにエルサレムから逃げなければならなくなりました。いのちからがらエルサレムからユダヤとサマリヤに散らされて行ったのです。(8:1)しかし、そんな悲惨で緊迫した状況でも彼らは「みことばの福音を伝えながら、巡り歩いた」(4)のです。その結果、サマリヤ地方にいる多くの人々がイエス・キリストを信じたのです。その為に神様はピリポを大きく用いました。サマリヤに教会が建て上げられ、人々の間に大きな喜びがありました。ピリポからこの喜びのニュースを受け、エルサレムから使徒ペテロとヨハネがサマリヤに派遣されました。彼らは新しくクリスチャンになったばかりのサマリヤ人クリスチャンたちに聖書を教え、クリスチャン生活のあり方を教えました。25節にありますように、ペテロとヨハネは福音を証しし、聖書の教えてから、エルサレムに戻りました。サマリヤのクリスチャンが自分たちで教会を建て上げて行くように委ねたのです。
1.ピリポへの召命
ピリポも当然エルサレムに戻るか、あるいはサマリヤに残ってサマリヤ教会の働きをすることを考えていたでしょう。ところが、26節に書いてありますように、神様のご計画は違っていました。神様の使いはピリポに、「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい」と言われたのです。
これはピリポにとって随分意外な事であり、常識はずれの事であったと思います。
(1).今ピリポの目の前にはサマリヤ人の教会の必要(新しくクリスチャンになったばかりの人々に聖書を教えることなど)が一杯あるのです。
(2).エルサレムに帰って行くならば分かりますが、ガザは荒野で人が住んでいない所です。
そんなところに行けと、聖霊なる神さまは命じられたのです。
私たち、現在のクリスチャンたちは、ともすると、目の前の仕事に追われ、目の前の必要に応えることしか考えない傾向があるのではないでしょうか。また、効率を第一に考えて働く傾向があるのではないでしょうか。
これらの目の前の必要に応え、効率よく働くと言うのは、悪いことではありません。人間的には良いことで、推奨されることです。しかし、それは必ずしも神様の願われることではないことがあります。神様は人間の常識に従って働くのではありません。神様はみ心に従ってみ業をなされるのです。
日本の教会は、ビジネス的な手法を教会の働きの中に無批判に取り入れて、キリスト教会がその本来のあるべき教会の姿から離れ、人間中心の教会になって来ているように、私には思え、危惧を抱いています。
ピリポは、この主の使いの命令を聞くと、立って出かけて行きました。(27)このピリポの信仰による態度に私は教えられています。人間的には効率の悪い、あるいはバカげた事に思えるような命令です。しかし、彼はこの命令を神さまからの命令と受け止め、一切の打算を考えず出かけたのです。すると、ピリポは一人のエチオピア人と出会ったのです。これは神様の導きです。ガザに向かう途中で人に会うなどと言うのは珍しいことなのです。新宿のような繁華街に出て行くのとは話が違います。神様はこのような出会いを用意して下さって、ピリポを導いてくださったのです。
神様は今でもこのような方法を用いて私たちを通して主のみ業を成されます。私たちが信仰を持って神様のみ声を聞き分け、そのみ声に従う時に、人間的には考えられないような出会いを与えて下さり、み業を進めてくださいます。
2.ピリポが導かれ、出会ったエチオピア人
さて、ピリポが導かれ、出会ったエチオピア人はどんな人でしたでしょうか?
- 女王の高官です。
- 女王の財産全部を管理している人です。
- 宦官です。
- エルサレムに行って神を礼拝をしてきた人です。
- エチオピアに帰る途中です。
- 聖書の巻物[イザヤ書]を持っている人です。
- 聖書を声を出して読んでいる人です。
これらのことから分かる事は、このエチオピア人はエリートです。エチオピアで高い地位にいる人であることが分かります。
皆さんの中で、日本の首相に会ったことのある人がいますか?東京都知事にあったことのある人はいるかもしれませんが、私たちはふだんなかなか政府の要人と会うことはありません。神様はピリポを導いて、エチオピア政府の高官と出会うように導かれたのです。又、この人はユダヤ人ではないのに、神様を信じていたようです。ですからはるばる遠くの国から旅をしてエルサレムに礼拝をしに来たのです。それも彼は宦官、つまり、去勢された人ですから、エルサレムに行っても神殿の中には入れない人です。それを承知で神様を礼拝するために長旅をしたのです。彼の信仰の熱意が伝わってきます。エルサレムに行って、私だったら、おみやげとして、服とか、飾り物とか、絨毯やそんな物があったかどうか知りませんが「エルサレム饅頭」なんかを買ったかもしれません。しかしこのエチオピア人は何を買ったと思いますか?聖書です。それもイザヤ書の巻物を買ったのです。今だったら、印刷された聖書がありますから、すぐに買えますが、この当時は、印刷技術はありませんから、羊皮紙に手書きにしたものでしょう。何冊もあるものではありません。それを買ったのです。買っただけではないのです。砂漠のような荒野を旅してエチオピアに帰る間もその聖書を声を出して読んでいたのです。
私たちはクリスチャンですが聖書を読むことにどれぐらい熱意を持っているでしょうか?教会の礼拝に行くのにどれぐらい熱心ですか?もしあなたが教会に来ても、教会の中には入れず、いつも外でスピーカーから流れる声で賛美し、メッセージを聞かなければならなくても礼拝に来ますか?昔、タイとカンボジアの国境の町にカンボジア人難民のためのキャンプ・収容所がありました。そこで多くのカンボジア人難民がクリスチャンになりました。キャンプの中に教会が建てられましたが、400人位入れる建物です。ところが礼拝には1000人以上の人が来ましたから、大部分の人は炎天下、入り口の幅で列を作って座り礼拝しました。彼らの熱心さに感心しました。
3.ピリポの「あかし」
さて、聖霊なる神様は、ピリポに言われました。「近寄って、あの馬車と一緒に行きなさい。」(29)そこでピリポは走って行き、エチオピア人に尋ねました。「あなたは自分が読んでいることが分かりますか?」と。
私たちが未信者の人に証しする時も同じです。
- 聖霊の導きを知り、従うことです。人間的な情熱や力で福音を証しするのではありません。聖霊なる神様の導きに敏感であることです、そして、その導きに従うことです。それにはいつも祈ることです。
- 聖霊はしばしば私たちに未信者の人たちに近づいて行くように教え導かれます。その人と一緒に行くのです。未信者の人の必要を知るために共に歩くのです。あなたはどれぐらい未信者の人と交わり、その人の霊的必要を知るために一緒に歩いていますか?その人と一緒に考え、同じような気持ちになって話し、理解しているでしょうか?共に歩くのではなく自分のペースで話し、自分のペースで先に進んで行ってしまうので、未信者の友達や家族が私たちについて来られなくなっているのではないでしょうか?
- また、聖書のことばを読むことです。一緒に聖書を読み、学ぶことです。議論したり、あなたの考えでキリスト教のことを説明すると話が難しくなってしまいます。それより聖書そのものを一緒に読んでみることです。
- その上で、聖書の内容が分かるかどうかをその人に質問するのです。素直にお互いの意見を言い合うことです。分からないことは分からないで良いと思います。分からないからと言って止めてしまうのではなく、更に読み進み、分かることを話し合ってみることです。そのように聖書のみことばを読んで行くと、不思議なことですがみことばには力があり、未信者の人にも神様は働いて神様が分かるようにしてくださいます。聖書をその文脈の中で理解することです。文脈を無視して、格言のように「神は愛です」と言いますが、「神を愛する」と言うことが聖書の文章の中でどのような意味で使われているのか分からないでいる人がいます。また、自分の言いたいことを正当化するために聖書の言葉を使うような使い方をする人がいますが、それはしてはいけません。
ピリポはエチオピア人の求めに応じて、馬車に乗り、一緒に座り、イザヤ書53章のみことばの意味を説明しました。さらにこの聖句が示していることは、イエス・キリストが神のしもべとしてこの世に来られると言う預言なのです、と説明してから始めて、イエス・キリストのこの地上でなされた救いのみ業について、十字架とよみがえりについて宣べ伝えたのです。
私たちも同じように福音を伝えて行くことが教えられています。「この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。」(35)とありますように、私たちも「イエスのこと」を宣べ伝えなければなりません。「イエスのこと」ではなく、キリスト教の文学や美術や音楽のことを話したり、あの牧師はこういう人だとかいろいろな牧師の話をしているのでは焦点のぼけた証になってしまいます。
この人は、イエス・キリストが自分の神様に対して犯している罪について分かり、その自分の罪を赦すためにイエス・キリストが自分の身代わりになって十字架について下さったことが分かった時、自分の罪を悔い改め、バプテスマを受けることを望みました。バプテスマを受けることが大切です。これは神様の前で自分が信じていることを告白することです。と同時に、他の人々の前で自分の信仰を告白することです。私は今までに何人もの「隠れクリスチャン」を自称する人に出会いました。そのような人は心で信じているけれど、教会にも行かない、他の人にも自分はクリスチャンだとは言わない、自分の信仰を言い表さない、自分の信仰を隠しているクリスチャンなのだ、というのです。聖書によると、そのような人は本当のクリスチャンではありません。パウロはローマ人への手紙10:9~10にこう言っています。
また、イエス様もこう言われています。
ピリポは彼にバプテスマを授けました。バプテスマを授けることは、使徒たちやピリポのように神様に選ばれ、立てられた人が行って来ました。これは教会が行う神様の業です。つまり、私たちが福音を宣べ伝え、福音を信じる人が起こされた時に、私たちはその人が教会に繋がり、教会の交わりに加わるように導きます。そして教会はその人に聖書のみことばを教え、バプテスマを授け、聖餐の恵みに加わるように導きます。
ここでもう一つ大切なことは、ピリポは聖霊なる神様に用いられた土の器に過ぎないことです。ですからピリポは聖霊によって彼から離れさせられ、見えなくなりました。バステスマを授けた人が大切なのではないのです。コリントの教会では、誰にバプテスマを授けてもらったかで分派が教会内に起こりました。愚かなことです。私たちはハリス先生にバプテスマを授けていただいたか、ケイン先生か、それとも本田先生か、宮崎先生かと言うことはどうでもよいのです。罪を悔い改めて、バプテスマを受け、聖霊を受け、キリストの証人として生きることが大切なのです。
ピリポは聖霊の導きによって、このエチオピア人をイエスの下に導くのに用いられました。このエチオピア人によって福音はアフリカに伝わり、エチオピア、北アフリカに教会が建てられたのです。
4.結び
神様はハリス宣教師そして本田先生、宮崎先生を初め多くのクリスチャンたちを導き、この周辺に住む多くの人々に福音が伝えられ、上水めぐみキリスト教会を建てられました。聖霊なる神様は今も私たちに臨み、力を与え、私たちをキリストの証人として下さっています。そして、聖霊なる神様は、ピリポに語りかけたように、私たちにも語りかけておられます。「立って、行きなさい」と。私たちの「エチオピア人は今どこにいるのでしょうか?だれでしょうか?」私たちが霊の耳を澄ませ、聖霊のみ声を聞く時、私たちの行くべきところが分かります。私たちは自分の活動やこの世の価値観や自分の思い込みから離れて、聖霊なる神様のみ声を聞く必要があるのではないでしょうか。御霊のみ声に聞き従いましょう。あなたの行くべきガザはどこですか?
神様があなたのために備えておられるあなたのエチオピア人は誰なのでしょうか?
お祈りしましょう。
さて、主の使いがピリポに言った。「立って南へ行き、
そこで、ピリポは立って出かけた。すると見よ。そこに、
帰る途中であった。彼は馬車に乗って、
御霊がピリポに「近寄って、あの馬車と一緒に行きなさい」
そこでピリポが走って行くと、
するとその人は、「導いてくれる人がいなければ、
彼が読んでいた聖書の箇所には、こうあった。
「屠り場に引かれて行く羊のように、
毛を刈る者の前で黙っている子羊のように、
彼は口を開かない。
彼は卑しめられ、さばきは行われなかった。
彼の時代のことを、だれが語れるだろう。
彼のいのちは地上から取り去られたのである。」
宦官はピリポに向かって言った。「お尋ねしますが、
ピリポは口を開き、この聖書の箇所から始めて、
道を進んで行くうちに、水のある場所に来たので、宦官は言った。
そして、馬車を止めるように命じた。
二人が水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られた。
それからピリポはアゾトに現れた。そして、
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