日本福音キリスト教会連合

私の神は主である

 
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2022年4月から「上水めぐみキリスト教会」の牧師。 サイクリングやジョギングが趣味。

1月24日主日礼拝 列王記18章1~15節

かなりの日数を経て、三年目に、次のような主のことばがエリヤにあった。「アハブに会いに行け。わたしはこの地の上に雨を降らせよう。」
そこで、エリヤはアハブに会いに出かけた。そのころ、サマリアでは飢饉がひどかった。
アハブは宮廷長官オバデヤを呼び寄せた。オバデヤは主を深く恐れていた。
かつてイゼベルが主の預言者たちを殺したときに、オバデヤは百人の預言者たちを救い出し、五十人ずつ洞穴の中にかくまい、パンと水で彼らを養ったのである。
アハブはオバデヤに言った。「国内のすべての水の泉や、すべての川に行ってみよ。馬とらばを生かしておく草が見つかり、家畜を絶やさないですむかもしれない。」
二人はこの国を分けて巡り歩くことにし、アハブは一人で一つの道を行き、オバデヤは一人で別の道を行った。
 オバデヤがその道にいたところ、エリヤが彼に会いに来た。オバデヤにはそれがエリヤだと分かったので、ひれ伏して言った。「あなたは私の主人エリヤではありませんか。」
エリヤは彼に答えた。「そうです。行って、エリヤがここにいると、あなたの主人に言いなさい。」
すると、オバデヤは言った。「私にどんな罪があると言うのですか。あなたがこのしもべをアハブの手に渡し、殺そうとされるとは。
あなたの神、主は生きておられます。私の主人があなたを捜すために人を遣わさなかった民や王国は一つもありません。その王国や民が、あなたはいないと言うと、主人は彼らに、あなたが見つからないという誓いをさせています。
今、あなたは『行って、エリヤがここにいるとあなたの主人に言え』と言われます。
私があなたから離れて行っている間に、主の霊はあなたを私の知らないところに連れて行くでしょう。私はアハブに知らせに行きますが、あなたを見つけられなければ、彼は私を殺すでしょう。しもべは子どものころから主を恐れています。
あなたには、イゼベルが主の預言者たちを殺したとき、私のしたことが知らされていないのですか。私は主の預言者百人を五十人ずつ洞穴に隠し、パンと水で彼らを養ったのです。
今、あなたは『行って、エリヤがここにいるとあなたの主人に言え』と言われます。彼は私を殺すでしょう。」
すると、エリヤは言った。「私が仕えている万軍の主は生きておられます。私は必ず、今日、アハブの前に出ます。」聖書 新改訳2017

1. 場面設定

1.1.サマリアでの飢饉のひどさ

今日の箇所は「かなりの日数を経て、三年」が経ったということから始まります。というのも、か
つてエリヤにこのような主のことばがありました。

17:1「ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」
果たしてその通りに、実に3年もの間、サマリアの地には一滴の雨も降らなかったわけです。
それゆえ、
18:2「そのころ、サマリアでは飢饉がひどかった。」
3年です。地は干上がり、作物は育たず、飲み水にも困るような状況です。17章を思い起こしてみましょう。
エリヤがしばらく過ごしていたケリテ川は涸れて干上がり、彼は貧しいやもめのもとに身を寄せました。そのやもめの状況は次のようでした。
17:12「彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私には焼いたパンはありません。ただ、かめの中に一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本の薪を集め、帰って行って、私と息子のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです。」」
最後に残ったわずかな粉があるだけで、あとは息子とともに死を待つのみ。人々は文字通り餓死していくような惨憺たる状況です。そのころ、サマリアでは飢饉がひどかった。

1.2.アハブの背信

なぜ、このようなひどい飢饉があったのでしょうか。それは国王であるアハブがイスラエルの神である主を捨てた罪のゆえであると聖書は告げます。アハブについては16:30-のところにこのようにありました。

「オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行った。 31 彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。 32 さらに彼は、サマリアに建てたバアルの神殿に、バアルのために祭壇を築いた。 33 アハブはアシェラ像も造った。こうしてアハブは、彼以前の、イスラエルのすべての王たちにもまして、ますますイスラエルの神、主の怒りを引き起こすようなことを行った。」
主の怒りを引き起こした!この痛ましいような飢饉の状況は、王としてのアハブの大きな罪によってもたされている。そして王よって導かれるイスラエル全体にその影響は広がっていたということです。その結果エリヤを通して、主が語られたのです。
主の「ことばによるのでなければ数年の間、露も降りず、雨も降らない」。
しかし当のアハブは、自らが原因で飢饉が起きているとの自覚はないようです。彼はこの飢饉の中、主へと立ち返るのではなく、家臣を呼び出し、自らも共に草や水源を探しに行こうとします。
原因わからずともかく必死、という感じでしょうか。しかも5節の彼の言葉を見てみると「馬とらばを生かしておく草が見つかり、家畜を絶やさないですむかもしれない」。何ということでしょう。死に直面していた民のことではなく、自らの家畜、財産の心配をしている(!)。アハブの無慈悲さが際立っているように思います。アハブを代表とするイスラエルは、主との契約を捨て、神の目に悪である状態へと陥っていました。このような状況の中で、エリヤはアハブのもとに遣わされていくのです。
「この地の上に雨を降らせよう」という主のことばをもって。
—そこで一人の興味深い人物が登場します。

2. オバデヤの揺れる心

2.1.オバデヤという人 —主を深く恐れ、アハブに仕える人物

オバデヤという人です。彼はどんな人だったのか。
3節から出てきますが、まずアハブの側近でした。「宮廷長官」という、王の家畜や財産を管理する仕事をしていました。なかなかの高い位です。このサマリアの危機の際してアハブは彼を呼び出しています。生き残るために、草や水を探すために二人で手分けして巡り歩いたという記述から、アハブのオバデヤへの信頼が垣間見えるのではないでしょうか。オバデヤは宮廷長官という立場にあって、その役割にふさわしく忠実に仕事をなしていたのだと思います。その意味で彼は「アハブの忠実なしもべ」と言うことができるのではないでしょうか。
一方で、オバデヤについては3節後半、

「オバデヤは主を深く恐れていた」。
そんな記述があります。
“オバデヤ”というのは「主のしもべ」という意味を持つ名前です。事実、その名の通りと言うべきでしょうか。4節を見ると、かつて主の預言者が王妃イゼベルによって殺された時に、彼は100人の主の預言者たちを救い出したとあります。50人ずつ洞穴の中で匿い、パンと水を与えながら彼らを養いました。—サラッと書かれているようにも見えますが、考えてみれば非常にリスクの高いことではないですか。アハブをさらなる悪の道へと引き込んだ妻のイゼベル。
彼女はイラエルの主に対する執拗なまでの怒りと、その預言者たちへの殺意に燃えていました。事実、主の預言者たちを殺したのです。そんなアハブ、そしてイゼベルに近しい立場にいたオバデヤが、あろうことか主の預言者を匿っている。そのようなことが明らかになれば、どうなるかは容易に想像がつきます。彼の命は他の預言者たちのようになる。すなわち、死ぬことになるでしょう。それゆえオバデヤは慎重に行動したはずです。このような危機的状況においても、何とか主の預言者たちが根絶やしにならないように、注意深くこのことを実行したことでしょう。かなりのリスクを背負いながら、まさしくその名のとおり、「主のしもべ」としても生きていたわけです。

2.2.二人の主人

すなわち。オバデヤは、一方で神である主に仕え、他方で王であるアハブに仕えていた。もちろんこの二つを同列に見ていたというわけではないでしょう。主の預言者を匿った事実からも、彼は根本において主を恐れる思いを持った人物と言えると思います。つまり彼は、信仰者でありつつ、異教社会に置かれていた。
現代の私たちも、通ずる部分はないでしょか。オバデヤとアハブほど極端ではなくとも、オバデヤの苦労が理解できる部分があるのではないでしょうか。信仰者として主を礼拝し、キリスト者として生きる。その一方で仕事や学校では、必ずしも主のみこころとは思えない価値観で物事が進んでいく。いや、週に5日・6日働く現実を思えば、むしろこの世の中での時間の方が長いわけです。
その中でキリスト者としていかに生きていくべきだろうか。これは私たちにとって極めて身近な問題です。神様を信じつつこの世で生きていくとはどういうことだろうか。
オバデヤはこの世の主人であるアハブが、主なる神に背き、罪を犯し、偶像礼拝を推し進めていくのを目の前で見てきたことでしょう。彼と妻イゼベルの残忍さを目の当たりにしてきました。明らかに、このアハブのもとで信仰者として仕えていくことは簡単ではなかったはずです。もしかすると、オバデヤ自身も罪に近いところを通らされるような経験もあったかもしれません。具体的なことは想像の域を出ませんが、オバデヤはまさにこのような難しさの中で、絶妙にバランスを取りながら「神である主」と「アハブ」という二人の主人に仕えるよう努めてきました。ですから彼は知恵を用いて、注意深くアハブに仕えてきたことでしょう。彼は今回も、アハブの命に従い、彼と共に水と草を探しに出かけます。アハブは一方の道を、オバデヤは別の道を。
そのような時に。オバデヤの目の前に神の人エリヤが突如として現れることになりました。7節、

「オバデヤがその道にいたところ、エリヤが彼に会いに来た。オバデヤにはそれがエリヤだと分かったので、ひれ伏して言った。「あなたは私の主人エリヤではありませんか。」」
驚いたことでしょう。水を探し求めている時に、飢饉の直接のきっかけとしての主のことばを語ったエリヤが現れたのです。10節を見ると、国中探しまわってもこの三年間見つからなかったあのエリヤです。
いかがでしょうか。これは主を恐れるオバデヤにとって喜ばしいことのはず、ではでしょうか。
ところが、どうやらそうではなかったようです。8節から、
「エリヤは彼に答えた。「そうです。行って、エリヤがここにいると、あなたの主人に言いなさい。」

2.3.オバデヤの「恐れ」

9すると、オバデヤは言った。「私にどんな罪があると言うのですか。あなたがこのしもべをアハブの手に渡し、殺そうとされるとは。 10 あなたの神、主は生きておられます。私の主人があなたを捜すために人を遣わさなかった民や王国は一つもありません。その王国や民が、あなたはいないと言うと、主人は彼らに、あなたが見つからないという誓いをさせています。 11 今、あなたは『行って、エリヤがここにいるとあなたの主人に言え』と言われます。
オバデヤはアハブに告げに行くことを恐れています。彼は言います「私にどんな罪があるのですか。」。もしそんなことをすればきっとアハブは私を殺すでしょう。

オバデヤはこの短い弁明の中で9、12、14節と実に3回も自分の死の危険について言及しています。彼が非常に強く恐れを持っていたことが伺われます。

「彼は私を殺すでしょう。しもべは子どものころから主を恐れています。」(12)
ところでオバデヤは何を恐れていたのでしょうか。
12節を見ると、アハブに知らせに行っている間に、主の霊が連れ去り、エリヤがいなくなってしまうことを心配しているようです。もしそうなればオバデヤは王に嘘の報告、あるいは無意味な報告をすることになり、自分は殺されてしまうだろう、と。
一見、もっともな話です。しかし、よく考えるとエリヤの側からアハブに会いに、さらに言えば神様がアハブにことばを伝えようとしてるわけです。そのエリヤが居なくなってしまうというのはやや不自然、というよりもオバデヤの過剰な心配にも思えないでしょうか。エリヤ自身がアハブと会うと言っているわけですから。そうであればオバデヤの恐れはこれだけではなく、別なところにもあるのではないか。
もう一つ不思議なことがあります。なぜエリヤは自分でアハブの前に行かず、わざわざオバデヤを遣わそうとしているのか、ということです。最初からエリヤ自身がアハブの前に出ていけば、オバデヤがこれほど恐れ、迷う必要はなかったようにも思います。
これらのことを解く伴が、8節のエリヤの言葉の中にあります。8節、
「エリヤは彼に答えた。「そうです。行って、エリヤがここにいると、あなたの主人に言いなさい。」
「エリヤがここにいる」と言いなさい。
——実はこの言葉、もともとの言葉では単純に「見よ、エリヤ」と言っているだけなのです。
「見よ、エリヤ」。そしてさらに興味深いことに、エリヤという名前は「私の神は主」という意味です。すると「見よ、私の神は主」。
ある人はこのことを踏まえて次のように言います。
「オバデヤが「エリヤがここにいる」とアハブに告白する時、一見無害なように見えるが、その意味は”見よ、私の神は主である”という告白にもなっている」
つまりエリヤのオバデヤに対する命令は、単にアハブにエリヤの存在を伝えることにとどまらず、オバデヤに信仰の告白を迫るものだったのです。「主のしもべ」という名のオバデヤが、アハブに「見よ、私の神は主である」と伝えにいく。正面衝突です。
オバデヤはこのアハブとの直接対峙を恐れていたのです。もし主の霊がエリヤを連れ去ってしまったら、自分は殺されるだろう。しかし、たとえエリヤが居たとしても、その時、オバデヤにとって真の主人が誰であるかということが明るみに出されてしまう。すなわち、自分の本当の主人はイスラエルの主であって、アハブではないのだ、と。

3. 万軍の主が生きておられる

3.1.オバデヤが問われた二つの選択肢

オバデヤは、エリヤの出現によって突如問われました。あなたは主を選ぶのか。それともアハブを選ぶのか。エリヤとアハブが対峙する時、「二人の主人」に仕えていくための絶妙なバランスが崩れていきます。これは彼にとって恐ろしいことでした。
なぜなら、普通に考えるならその先に待ち受けているのはまさしく「死」であるからです。オバデヤは二つの主人の間で揺れています。エリヤの命令はオバデヤを「心地よいところ」から連れ出し、信仰の決断へと導きます。
オバデヤの恐れに対する、エリヤの言葉は明快です。

15節「 15 すると、エリヤは言った。「私が仕えている万軍の主は生きておられます。私は必ず、今日、アハブの前に出ます。」」

必ずアハブの前に出る。
そのように断言します。なぜでしょうか。それは主なる神が命じられたことだからである。神がそうされるのだ、と。
しかも、その神についてエリヤはこう言うのです。「私が仕えている万軍の主は生きておられる」。

神は万軍の主なのである。たとえ目の前にイゼベルの脅威があったとしても。仲間の預言者たちが殺されたという事実があったとしても。あなたが信じ恐れている主は、それらを遥かに凌ぐ力と尊厳をもったお方である。あなたはこの方に信頼するか。この方を主人として告白して一歩を踏み出すか、と。

さて、私たちも、突如、信仰告白を問われることがあります。みことばに迫られる時。人を通して示される時。状況がそのように向かう時。それは予期せぬ時に突然やってきます。
この世とキリスト者としての生き方の中で迷い揺さぶられることがあるでしょう。その時にあなたは主を選ぶのか。
もちろん、聖書はいたずらに王に逆らったり、世を軽視することを勧めているわけではありません。
しかし直接対峙を避けてはならない場面がある。そのように主から導かれる時があります。
その時に「万軍の主は生きておられる」と信じ、その信仰の一歩を踏み出したいと思うのです。
イエス様は山上の説教の中で言われました。

「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。」(マタイ6:24)
私たちの主人は主、ただお一人です。
今、私たちは考えたいと思います。自分の中で二人の主人に仕えようとしている事柄は何でしょうか。実は主から問われつつも、絶妙にバランスをとって曖昧にしている領域はないでしょうか。

「私の神は主である」
短く静まりの時を持ちましょう。
祈りましょう。

「 15 すると、エリヤは言った。「私が仕えている万軍の主は生きておられます。私は必ず、今日、アハブの前に出ます。」」
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