キリストの花嫁
エペソ人への手紙5章21~33節
|
今朝は、礼拝式の後に結婚誓約式を行いますので、キリスト教の結婚についての教えを聖書から学びます。
1.聖霊に満たされなさい
聖霊なる神様の働きによって私たちが新しく生まれてクリスチャンになると、すべての面で新しくなり、新しい考えになり、新しい行動をとるようになります。家族関係も新しくなります。聖書はクリスチャンに「聖霊に満たされなさい」(5:18)と教えています。
聖霊に満たされますと、19節に書いてありますように、賛美が出てきます。クリスチャンの特徴の一つは、神様を賛美すること、賛美歌がある生活になることです。
次に、クリスチャン生活は感謝のある生活になります。主イエス・キリストによって私たちの罪が赦され、滅びから救われたことを感謝する生活です。自分のような者が救われたと分かると、私たちは「すべてのことについて」(20)聖霊の導きによって、主イエス・キリストの名前で、父なる神様に感謝できるように変えられます。これは努力ではありません。神様が変えてくださいます。
第3番目にクリスチャン生活に出てくることは、21節にありますように、「キリストを恐れて、互いに従い合う」ようになることです。
2.「キリストを恐れて互いに従い合う」ということを家庭内で実行するにはどうするのか
このことが22節以下に書かれています。つまり、クリスチャンたちは家庭内でどのようにするのか、ということです。
初めに、妻はどうするべきかが述べられ、次に夫はどうするべきかが述べられ、第3番目に子供たちはどうするべきか、親である父はどうするべきかが書かれ、最後に使用人と雇い主はどうするべきかが書かれています。
a.「キリストを恐れて互いに従い合」うということはどういうことでしょうか?
「キリストを恐れる」とは、キリストのことを怖がるということではありません。恐れる
まず、とは、キリストを聖い神様と知って、キリストに畏敬の念を持つ、ということです。キリストが天地万物を創造され、それらを支配、維持しておられる創造主である神様だと知って、その偉大さの前に自分自身をへりくだらせ、謙虚になることです。神様を敬いますから、神様のことでふざけたり、遊んだりはしません。このように畏敬の思いを持ち、へりくだって謙虚な者になって他の人に従って生きていく、ということです。
ここで言われている「従う」ということは、俺の言うことに従え、という人間が上から命令して強制的に「従」わせる、ということではありません。主イエス・キリストの権威の下に「従う」「行動」するということです。ですから、21節では「キリストを恐れて・・・従いなさい。」22節では「主に従うように」とあります。
b.それではクリスチャンの夫婦の間の関係はどうあるべきなのでしょうか。
「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。」とありますように、妻は夫に従うのです。「主に従うように」ということの内容をパウロは24節で「教会がキリストに従うように」と説明しています。また、23節で「キリストが教会のかしらであり、・・・夫は妻のかしらなのです。」と教えています。
ここで「教会」と呼ばれていることはクリスチャンたちのことです。クリスチャンたちは主イエス・キリストの十字架の贖いとよみがえりによって自分の罪から救われて、救い主キリストのからだの一部になりました。そのからだのかしらはキリストです。同じように私たちが結婚して夫婦として一つになると、夫婦のかしらは夫です。妻はクリスチャンたちがキリストに従うように夫に従うのです。それはどういうことかと言いますと、4:15~16に「愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。」とあるようにすることです。ここで教えられている妻はかしらである夫に従うということは、
- 夫を愛し、真理を話す、嘘をついてはいけません。
- 夫と共に成長することです。
- その成長は、妻と夫が一つになり、それぞれの能力を用いて働くことによってもたらされる。(組み合わされ、つなぎ合わされて、)
- 神様の愛によって建てられる。
ということです。
c.それでは、夫はどのようにするのでしょうか。
25節を見てください。夫は妻を愛するのです。この愛は「キリストが教会(クリスチャンたち)を愛し」た愛です。それはキリストが私たちのためにご自分を献げられた愛によって妻を愛するということです。この愛はアガペーの愛です。友達同士の愛ではありません。自分を犠牲にしてもささげる愛です。私たちの人間の愛も美しいものですが、アガペーの愛、神様の愛とは違い、どこかに自分中心の思いが入ってきてしまいます。「あんなに愛してよくしてあげたのに、恩をあだで返した」「助けてあげたのに何のお礼もない」「あの人に親切にし、援助してあげたのだから、もう少し私によくしてくれてもいいじゃないか」人間の愛はしばしば見返りを期待するものです。
キリストの愛はこのような人間の愛とは全く違います。
ただ無条件でイエス・キリストのもとにくればよいのです。そうしたらイエス・キリストは私たちに本当の休みを与えてくださいます。
イエス・キリストと一緒に十字架に付けられた犯罪人の一人が十字架上のイエス様に言いました。
「私を思い出して下さい。」とイエス様が神様であることを信じたこの犯罪人は救われてパラダイス、天国に行ったのです。
主イエス・キリストは私たちの罪の身代わりとなって十字架に付けられて死んでくださったのです。これが神様の愛です。何のために十字架にかかって死なれたのでしょうか?エペソ書の5章に戻ってください。私たちを「聖なるもの、傷のないものとなって」(27)神様の栄光に輝く者として神様の前に立つことができる者とするためです。ですから28節に
3.結び
聖書は結婚を重んじます。結婚とは、何か派手なパーティーをしたり、美しく着飾ったりすることが中心ではありません。結婚とはただ同棲する、同じ家に住んでいる、ということでもありません。結婚は一人の男子と一人の女子が創造主なる神様の前に誓い、キリストを恐れて互いに夫として妻として従って生きていくことです。なぜなら32節にありますように、結婚の隠れた意味は、キリストと教会が結びあわされている、ということだからです。キリストが花婿で私たち、クリスチャンたちはキリストの花嫁なのです。ですから私たちの日々の生活を通して夫が妻を愛しているその姿を通して、また、妻がキリストを恐れてかしらである夫に従っている姿、あり方を通して人々はキリストと教会(クリスチャンたち)の間の聖い愛を見るのです。キリストのいのちが教会に満ち溢れているのを見るのです。そして私たちが天の御国に行った時には父なる神様の前に栄光の教会として、栄光に輝くクリスチャン、神の子として立つのです。
お祈りしましょう。