流れのほとり NO.36
春の足音が玉川上水に近づいてきました。芽吹きが少しずつ始まっています。「♪は~るよ来い、♪は~やく来い」と、口ずさみたくなります。
<ママと一緒>
玉川上水の遊歩道に着く手前に保育園があります。夕方、散歩で行く時には、丁度 親たちが子どもを迎えに来て、大きな声で「バイバイ、バイバイ」とエールを交換するように迎えに来たママやパパの自転車の後ろに座わって子どもたちが叫びながら帰宅して行きます。散歩の歩を進めると、後ろから楽しげな声で自転車の後ろの席から「ねぇ~ママ、今日ね」と楽しそうな話し声が私を追い抜いて行きます。ある子どもは疲れきってもう落ちそうになって寝ています。私はその姿を見て、いつも心がやわらぎ、「親子がこんなに仲良く、楽しそうに話し合っているなんてすばらしいなあ~」と思います。子どもも親も幸せだなあ~、と茜色の夕空を見上げます。
<パパの胸に>
皆さんは小さい時に高い所から飛び降りて、父親に受け取ってもらったことがありますか?高くて恐ろしいですが、パパに飛んで降りてごらんと言われるので、勇気を振るって飛び降りるとパパの胸の中に入り、できたぁ~、と喜び、ちょっと強くなった気になり嬉しくなります。
<神様からのしるし>
多くの人は、宗教を信じているのか、信じていないのか分かりませんが、神社やお寺でご利益を求めます。受験シーズンは、合格祈願11月には七五三で神社に行きます。葬儀となるとお寺に駆け込み、洒落た結婚式をと思うとキリスト教式になります。いずれも自分の願いが具体的に成就するという「しるし」を求めているようです。
<まことの神様の「しるし」>
聖書の中で神様は私たち人間を祝福し、約束を与え、その「しるし」を与えてくださる、と教えています。ところがその「しるし」は決してお金や、物ではなく、「一緒にいる」という「しるし」なのです。
例えば、モーセという人に神様はエジプトに行ってそこで奴隷として苦しめられているイスラエル人たちを助け、解放しなさい、と命じます。しかし、モーセはビビって「私みたいな弱い者にはそんな大役はできません。」と断ります。すると神様は
「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。」(出エジプト記3:12)と言われました。
また、モーセの後継者ヨシュアにも同じ「しるし」を与えました。
「私が与えようとしている地に行け。」(ヨシュア1:2)「わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(ヨシュア1:5)
預言者イザヤは神を信じる人々に神様の約束を告げて言いました。「恐れるな、・・・わたしはあなたとともにいる。」(イザヤ43:2)
また、御使いがヨセフに彼の許嫁マリアは男の子を産みます、と告げた時に、その「しるし」として「その(男の子の)名はインマヌエルと呼ばれる」それは訳すと、「神が私たちとともにおられる」という意味である。」(マタイの福音書1:21,23)と告げました。
更に、十字架で殺されてから三日目によみがえられた主イエスは弟子たちに約束の「しるし」を示しました。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)
聖書の神の約束の「しるし」は、このように物やお金、財産ではなく、「ともにいる」ということです。
保育園帰りの子どもにとってはママと自転車上で一緒にいることが一番うれしいことです。一緒にいるパパが飛び降りてごらん、と言ったら、パパが受け止めてくれることを信じ、疑わずにパパの胸に飛び込みます。同じように、あなたも「一生、いや永遠にともにいる」と約束して下さる神様の胸の中に飛び込んでみませんか?