大胆に語らせてください
さて、釈放された二人は仲間のところに行き、
これを聞いた人々は心を一つにして、神に向かって声をあげた。「
『なぜ、異邦人たちは騒ぎ立ち、
もろもろの国民はむなしいことを企むのか。
地の王たちは立ち構え、
君主たちは相ともに集まるのか、
主と、主に油注がれた者に対して。』
事実、ヘロデとポンティオ・ピラトは、
彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、
ルカは「美しの門」でイエスの名によって足を癒された人の事に伴って起こったことを使徒の働き3章から4章にかけて書いています。
なぜこんなに長くこのことを書いているのでしょうか?
それはこの出来事が大切だからです。
主イエスは昇天される前に弟子たちに「父の約束を待ちなさい。」(1:4)と命じました。その「父の約束」とは、聖霊が弟子たち一人一人に下ることでした。
ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が下った時に、弟子たちは「皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」(2:4)のです。なぜこのようなことが起こったかをペテロはエルサレムにいた人々に語りました。それはイエス・キリストの十字架とよみがえりによる救いの完成のメッセージでした。
聖霊に満たされた弟子たちの生活はどうなったのでしょうか?
イエス・キリストの十字架とよみがえりを信じるクリスチャンたちの生活はどのようになるのでしょうか?
主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続けるクリスチャンたちはどのような生活をするのかをルカは、具体的に3章から4章にかけて説明しているのです。
聖霊に励まされて前進し続けるクリスチャン生活は「イエスの名によって立ち上がり、歩く」生活です。
クリスチャンになり、聖霊を受けると、私たちはイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩くように変えられます。つまり、お金、財産や、名誉や、社会的な地位や、学歴や、家柄によって立って、歩く生活から離れて、イエス・キリストの名によって歩く生活をする者になります。
ペテロは「この名」ということばを何回も使っています。3:6だけでなく、3:16では「このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに」と言い、4:12では「天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」4:17には「この名によって語ってはならない」4:18には「イエスの名によって」4:30では「あなたの聖なるしもべイエスの名によって」と出て来ます。私たちクリスチャンは主イエスの名前によって生き、話し、行動し、生活する者になったのだ、と言うことを教えています。つまり、イエス様の力と権威によってクリスチャンは生きていくのです。パウロは第2コリント1:21~22で「私たちに油を注がれた方は神です。神はまた、私たちに証印を押し、保証として御霊を私たちの心に与えてくださいました。」と教えています。
私たちは主イエス・キリストの福音を信じた時にこの弟子たちと同じように聖霊の証印、はんこを押されたのです。イエス様のものというはんこが押され、イエス様の者として生きる力が与えられたのです。
次に、ルカが繰り返し教えている事は、弟子たちは主イエス・キリストの十字架の死とよみがえりを証しする証人になった、ということです。
それもコソコソと小声で証しするのではなく、大胆に証しをする者にされた、ということです。ペテロは無学な者でした。第一ペテロ4:12にありますようにシルワノさんに手紙を書いてもらった、とありますから、もしかしたら、字も文章も上手に書けなかったのかもしれません。ガリラヤの田舎の漁師だったのです。宗教家でも政治的なリーダーでも教育者でもありませんでした。しかし、彼は大胆にイエス・キリストの福音を証ししました。ここでルカが強調している事は、1:8に「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」と書いてあるとおりになったということです。
クリスチャンは聖霊を受けるとイエス・キリストの事を大胆に、多くの人々に証しする人に変えられた、と言うことです。
更に、ペテロは、
イエス・キリストは旧約聖書で預言されてきた救い主、メシアであることを強調しています。
ペテロの説教の中に彼は何回も旧約聖書の言葉を引用しています。3:18に「神は、全ての預言者たちの口を通してあらかじめ告げておられたこと、すなわち、キリストの受難をこのように実現されました。」とある通りです。そしてモーセ、サムエル、アブラハムに神様が約束されたことをイエス様が成就されたのだ、とペテロは語りました。4章でも、11節に詩篇の預言を説き明かし、25節~26節にも再び詩篇の預言を引用しています。
ルカはここで聖書のみことばが確かで信じるに足ることを私たちに教えています。
クリスチャンは聖書の言葉を信じ、聖書の教えに従って生きていく者です。
また、そのように生きると、クリスチャンは迫害や反対に直面することも教えています。しかし私たちはどんなに反対されても「神に聞き従うことを第一にしていきます。」
23節を見てください。迫害され、拘束されたペテロとヨハネは翌日釈放されました。すると彼らはどうしたでしょうか?「仲間のところに行きました。」これもクリスチャンの特徴です。
クリスチャンたちは主イエス・キリストにあって一つです。
釈放されてその喜びを誰と分かち合うか、それは同じ信仰を持っているクリスチャンたちとです。これが教会のあるべき姿です。私たちは主イエス・キリストにあって一つとされた、仲間に、神の家族にされたのです。彼らは仲間のクリスチャンの所に行って、祭司長や長老たちに言われたことをクリスチャンの兄弟姉妹に全て伝えました。そして何をしたでしょうか?
「心を一つにして神に向かって声をあげた」のです。皆で心を一つにしてお祈りをしたのです。
私はこの個所を読んで反省しています。先週の日曜日14日に、田中沢子さんは退院した、と喜んで教会にお花を持って来てくださいました。私は元気になった田中さんを見て嬉しくなって、「あっ、田中さんがいらした。良かったですね。無理しないでよ。」と言っただけです。ペテロやこの初代のクリスチャンたちのように祈らなかったのです。彼らは「釈放されて良かった、良かった」と喜ぶ前に皆で祈ったのです。私たちももっと皆で祈る者たちになりましょう。
どんなふうに祈ったでしょうか?
「主よ」と祈りました。新改訳聖書はこのことばに*印を付けていて、脚注にギリシャ語の「デスポテース」と言うことばが使われていますよ、と丁寧に書いています。主よ、と言う時、普通は「キュリオス」といことばが使われるのですが、ここでは特別に「デスポータ」と言うことばが使われています。この言葉の意味は私は奴隷であなたは奴隷の主人です、という意味の「主」なのです。つまり、ここでペテロを始め、クリスチャンたちは神様の前にへりくだり、神様の奴隷として「ご主人さま」とお祈り始めました。私だったら、「主よ、解放されました。感謝します。」と祈ったかもしれません。ところがこのクリスチャンたちは自分の事から祈り始めませんでした。まず、神様の偉大さ、神様の主権を覚え、祈り、賛美したのです。まず、天地を創造された神様を讃えました。また、神様はダビデの口を通して私たちに語られる神様であることをほめたたえました。私たちが自分の願い事を訴え、叫び続けるが答えない神々ではなく、まことの神様は私たちに神様の方から語ってくださるお方です。つまり私たちに分かるように神様ご自身を、また、みこころを語り、示してくださるお方です。そしてこのクリスチャンたちは詩篇2篇で預言されたみことばを引用して祈りました。この詩篇が預言しているように世の中の人々はメシアであるイエス様に逆らい反抗するけれども、それらは無駄なことだ。イエス様は王様でこの世を支配している救い主、メシアである、とダビデの口を通して預言されている通りになりました。すなわち、ヘロデとピラトはユダヤ人だけではなく、異邦人達を扇動して一緒になって神様が油注がれた王様であるイエス様に逆らって、イエスを十字架につけて殺したのです。更に28節に「御手とご計画によって、起こるように前もって定められていた」とありますように、このイエス様の十字架は、実は神様の御手のうちにあること、ご支配の下で起こったことであって、これらは神様のご計画であったのです。このように彼らは神様が歴史を導き支配している神様であることを賛美して祈っています。このように神様を賛美して後に、それから彼らは自分たちの願い事を祈ります。私たちもこのように祈るものになりましょう。自分の願いばかりを祈るのではなく、自分にとって神様はどういうお方なのか思い、神様のご計画とご支配の下で私たち一人一人の人生が、生活が導かれ、守られていることを感謝し、神様を賛美する祈りです。
29節から彼らの願い事が祈られています。
「主よ(キュリエ)、今、彼らの脅かしをご覧になってください。」と祈りました。先ず願ったことは、主にご覧になってください、ということです。私たちが今置かれている状況をご覧になってください。これは神様、彼らの脅しをさばいてください、と言う願いではありません。また、脅しによって教会が閉鎖されたりしないで、平和と安全を守ってください、と言うことを願っているのでもありません。彼らはただ、神様この状況をご覧になり、あなたの心のうちに収めてください、と祈り願っているのです。次に、彼らは「神様のみことばを大胆に語らせてください。」と願ったのです。祭司長や長老たちは彼らが神様のみことばを語ることを禁止しましたが、神様のしもべである彼らにそのような禁止令や脅しに関係なく、大胆にみことばを証しすることができるようにしてください、と願ったのです。
第3に、「神様、御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒しとしるしと不思議を行わせてください。」と祈り願ったのです。彼らは彼らの信仰に反対する人々をやっつける災いの様なさばきの奇跡、火を下して焼き尽くすと言うようなさばきの奇跡を行ってください、とは祈りませんでした。そうではなく、神様の御手を伸ばしてくださり、病気や悪い所を癒し、クリスチャンではない彼らがこれは神様が行ってくださったことだと認めざるを得ないような不思議なしるし等を行ってください、と願ったのです。弟子たちが語る神様のみことばと共に、そのみことばが神様のみことばだと皆に分かるような癒しのみ業、特別なしるしや不思議なことが起こりますように、と願い祈ったのです。
私たちもこのように祈り願う者になりましょう。神様が御手を伸ばしてくださり、私たちを通して、神様のみことばと不思議な御業が上水めぐみキリスト教会で行われるように願い、祈って行きましょう。お祈りをします。
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牧野先生へ
こんにちは、主を賛美します。久しぶりにホームページを訪問して先生のメッセージを聞きました。来週は受難週、そしてイースター。十字架に示された主の愛に感謝と喜びを心に留めることができますように祈りたいです。