日本福音キリスト教会連合

悲しみから喜びへ

 
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2022年4月から「上水めぐみキリスト教会」の牧師。 サイクリングやジョギングが趣味。

使徒の働き8章1~8節

サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。 その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のためにたいへん悲しんだ。
サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して、牢に入れた。 散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆はピリポの話を聞き、彼が行っていたしるしを見て、彼が語ることに、そろって関心を抱くようになった。汚れた霊につかれた多くの人たちから、その霊が大声で叫びながら出て行き、中風の人や足の不自由な人が数多く癒やされたからである。その町には、大きな喜びがあった。    聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

1.ステパノの殉教

ステパノの殉教の死は壮絶であり、凄惨でした。幸いなことに、私たちはこのような場面に遭遇したことがありません。しかし、テレビで報道される内戦状態やデモの衝突の場面に思わず見ていられなくて目を背けてしまうような悲惨な場面があります。エルサレムでこの時に起こったステパノの石打ち刑は聖書を読んで想像するだけで恐ろしくなります。

8章1節は7章と繋がっていて、「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。」と始まっています。すごく恐ろしいことばです。あなたは他人を殺すことに賛成したことがありますか?サウロはこんなに恐ろしい思いを人々に分かるように言い表していたのです。ですからステパノに石を投げつけようとしていた人々は7:58にありますように、「証人たちは、自分たちの上着をサウロという青年の足元においた」のです。サウロはステパノを初めクリスチャンたちを、いや、主イエス・キリストを憎んでいたのです。この憎しみはエルサレムの住民の間に拡がり、ステパノが石打ち刑になった日にエルサレムでは教会、クリスチャンたちを激しく迫害する暴動のようなものが起こったのです。群衆は感情的になり、クリスチャンは悪い、クリスチャンたちは神を冒涜しているけしからん、と群集心理に火が付いていますから、まともに考えることができません。

2.使徒たちの決断

この日、ステパノが信仰の故に殺されただけではなく、多くのクリスチャンたちがエルサレムで殺されたのです。そこでリーダーである使徒たちは決断しました。「逃げろ!」クリスチャンたちは北へ逃げてユダヤ地方からサマリヤ地方に逃げて行ったのです。

聖霊なる神様はこのようにリーダーである使徒たちを導かれました。主にあるリーダーは聖霊の導きにより決断をしなければなりません。ある時はこの場合のように撤退、逃走しなければならないのです。クリスチャンだから、何時も前進だ、という訳にはいかないことがあるのです。使徒たちはリーダーとして決断をしただけではなく、自分が取るべき責任を負いました。使徒たちは逃げなかったのです。彼らは殺されるかもしれません。そのような危険を知りながら、使徒たちは自分を犠牲にして、自分を捨てて信仰に立ったのです。信徒のクリスチャンたちのいのちを守ったのです。主イエスのおことばをおもいだします。(ヨハネ10:12,13)、

「牧者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げてしまいます。・・彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからです。」

3.敬虔な人たち

エルサレムは怒りと暴言で騒乱状態でした。しかし、その中に少数ではありましたが、この状態を悲しんでいる人々がいました。2節にある「敬虔な人たち」です。

彼らはクリスチャンではありません。彼らは創造者なる神様を信じる熱心で敬虔なユダヤ教徒たちです。彼らはステパノが何も間違っていないことを知っていました。そのステパノが群集心理に乗せられて感情的になり暴徒化した人々に殺されたことを悲しんでいました。クリスチャンの弟子たちは迫害をのがれて逃げなければなりませんでした。エルサレム郊外に残され置かれたステパノのむくろをこのユダヤ人たちが引き取って葬ったのです。「大変悲しんだ」のです。まともな人にとってこれは異常な悲しい出来事だったのです。私たちもこのような悲しいことを悲しむまともな心、判断をする力が必要です。たとえ大多数の人が反対しても悲しいことは悲しい、間違ったことは間違いで受け入れない、そのような人になることが大切です。

4.サウロの迫害

一方、サウロは狂ったようにクリスチャンたちを探し出し迫害し、いのちを奪っていきました。敬虔な人たちとサウロのコントラストが鮮やかです。怒りと憎しむ人々vs.少数ながら悲しむ人々の姿を思い描いて下さい。

先日来アフガニスタンからの難民の姿の報道が何回かありました。イラン、イラクからの難民、50年近く前にはベトナムやカンボジアからの難民がボートピープルとして国外に逃げて話題になったことを覚えている方がおられるかもしれません。故郷を追われ、他国に逃げなければならないことは想像ができないほどつらいことです。

5.迫害を逃れたクリスチャンの働き

普通の信徒のクリスチャンたちは迫害をのがれてサマリヤに行きました。ご存じでしょうか?サマリヤ人とユダヤ人は犬猿の仲だったのです。サマリヤ人はユダヤ人とアッシリア人を初め外国人との混血の人々でした。ですからユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑していました。その上、サマリヤ人は自分たちの宗教を作ってゲルジム山に神殿を建て、そこで神様を礼拝していました。更に、彼らは旧約聖書を持っていないので、旧約聖書の創世記から申命記までの5書を聖書として使っている人々でした。そんなサマリヤ人たちをユダヤ人たちは日頃から見下していました。そのサマリヤの町々、村々にクリスチャンたちは命からがら逃げて行ったのです。4節を見てください。逃げているクリスチャンたちはサマリヤ人たちに「みことばの福音を伝えながら巡り歩いた」のです。これは私の想像ですが、サマリヤ人がクリスチャンたちに尋ねたのでしょう。「あなたたちはなんでここに来たのですか?」するとクリスチャンたちは答えたのです。「私たちはつい最近エルサレムで十字架に付けられたイエス・キリストをメシア、救い主と信じる者たちです。神様はその主イエスを預言どおり三日目に死からよみがえらせたのです。その上、その主は私たちに聖霊を注いで下さったのです。ところがユダヤ教を信じる連中は主イエスを信じませんから、私たち信じる者たちを迫害し、殺しているのです。そこで私たちは彼らの手をのがれて逃げてここに来ました。」

このようにクリスチャンたちは行く先々で主イエスについて証ししたのです。クリスチャンたちは普通のユダヤ人のようにサマリヤ人を蔑んで差別しませんでした。サマリヤ人にも主イエスの救いに与かってほしい、との愛があったのです。その証しを聞いたサマリヤ人たちの中から主イエス・キリストを自分の救い主と信じる人たちが起こされていったのです。神様はこの時、使徒の働き6章に書かれている「御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たち七人を選ん」(6:3)だ7人のうちの一人、ピリポをサマリヤで用いたのです。ピリポは聖霊に満たされてサマリヤの地で人々にキリストを宣べ伝えたのです。ここで注目しなければならないことは、ピリポがキリストを宣べ伝えた、ということです。彼はエルサレムのユダヤ人の蛮行を人々に言いふらしたのではないのです。「あいつらは悪い奴だ」と悪口を言うのではなく、彼はキリストを宣べ伝えたのです。また彼に与えられた特別の賜物を用いて、神様の力で「しるし」や「汚れた霊を追い出す」ことや「足の不自由な人の足を癒す奇蹟」を行ったのです。すると人々はピリポが話すキリストについてのメッセージに関心を抱き、福音を聞いて主イエス・キリストを信じ受け入れたのです。

6.結び

信仰により人々は救われてどうなったでしょうか?8節を見てください。「その町には、大きな喜びがあった。」のです。「大きな喜び」とは、一か所で大勢の人が信じてわあ~っと喜びが爆発したと言うのではなく、その町の中でここでもクリスチャンになったと言う喜びの声が、そちらでも、あちらでも、と、いたる所で救われてクリスチャンになった、という喜びが上がった、ということです。

エルサレムの敬虔な人たちはクリスチャンたちが迫害され、殺されるのを見て、「たいへん悲しんだ」のです。しかし、聖霊に導かれ、クリスチャンたちがいのちからがらサマリヤ人の間に来て、真の神様を知らない人々に、偏見を捨て、愛を持って主イエスの救いの証しを喜びを持って伝えると、サマリヤ人たちが次々と信じて町のいたるところで救いの喜びの声が上がったのです。悲しみは喜びに変えられました。

何が原因でしょうか?

主イエス・キリストの福音が宣べ伝えられたからです。余計なことを言うのではなく、単純に自分たちの救いについて証ししたからです。私たちも同じようにシンプルにキリストの福音を他の人々に宣べ伝えましょう。

最後に、もう一つ大切なことを知りましょう。クリスチャンたちは勇ましく「サマリヤの伝道に行くぞ!」と言って出かけて行ったのではないのです。彼らは「散らされ」(8:1、4、)てサマリヤに行った人々です。神様は迫害という一見マイナスに見えることを通してクリスチャンたちをサマリヤに連れて行き、そこで証しするように導き、みこころをなされたのです。使徒の働き1:8に

「しかし聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

と、あります。聖霊なる神様が私たちをキリストの証人とされるのは、いろいろな方法を持ってなされるのです。このエルサレムのクリスチャンたちとピリポのように、迫害によって散らされたことによってサマリヤ地方でキリストの証人となりました。私たちも同じです。会社の転勤によって、引っ越しによって、また、自分が第一志望で希望していた大学や学校に入学することによって、今まで行ったことない所でキリストの証人とされることがあるでしょう。フィリピン人の多くの女性は、好きでなくても家族が生きていくために外国で辛い労働をして働いています。日本にも、韓国にも、台湾にもそのようなフィリピン人女性が大勢います。その中には大勢の熱心なクリスチャンたちがいます。あるフィリピン人のクリスチャンは、ある国の王様の子供の世話係となりました。その為彼女は王様の娘、息子を毎晩寝かしつける時に聖書の話をし、讃美歌を教えました。日本のある東北の僻地の老人ホームで働くフィリピン人のクリスチャンの女性が家族に見放された老婦人を愛を持ってお世話することによって、そのお婆さんが「あなたの信じる神様を知りたい」と言われた、という話を聞いたことがあります。私のことを信仰の故に馬鹿にする人のことを聞いて、友人がキリストに関心を持って私に聞いてきた人もいます。

第二コリント4:8~10のみことばを確信しましょう。

「私たちは四方八方から苦しめられていますが、窮することはありません。途方にくれますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。」

神様は私たちの思いを越えて日々の歩みを、人生の苦難から導き、私たちを通して主イエスの救いが多くの人にもたらされ、悲しみを大いなる喜びに変えてくださるのです。

お祈りしましょう。

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