神に聞き従う。
使徒の働き4章13~22節
そして、癒やされた人が二人と一緒に立っているのを見ては、
彼らは二人に議場の外に出るように命じ、協議して言った。
「あの者たちをどうしようか。
しかし、これ以上民の間に広まらないように、
そこで、彼らは二人を呼んで、
しかし、ペテロとヨハネは彼らに答えた。「神に聞き従うよりも、
私たちは、
そこで彼らは、二人をさらに脅したうえで釈放した。それは、
このしるしによって癒やされた人は、四十歳を過ぎていた。
聖書 新改訳2017
主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続けていくクリスチャン生活をしていると「反対」に直面します。ペテロとヨハネは40年以上足が悪くて歩くことができない人にイエスの名によって「良いわざ」をしました。その人を見て、多くの人々がペテロとヨハネと癒された人のいる所にやってきました。そこでペテロは人々に福音を語りました。「ユダヤ人たち、あなたがたが十字架につけて殺したイエスは死後三日目によみがえられた」と語り、「そのよみがえられて生きておられるイエスの名前によって生まれつき足が悪く歩けなかったこの人は癒されて、歩けるようになった、」と語りました。
ところが「よみがえり」を信じないサドカイ人は面白くありません。そこで彼らは祭司長や律法学者たちを連れて来てペテロとヨハネを逮捕しました。
二人を囲んでペテロとヨハネを懲らしめようと考えていると、ペテロは彼らにも福音、イエスの十字架とよみがえりを語りました。よみがえりを信じないサドカイ人たちもこの二人の発言に驚きました。
何で驚いたのでしょうか?
・ペテロとヨハネが大胆に語ったからです。それもイエスの十字架の意味とよみがえりの事実を明確に語ったからです。
・彼らが無学な者、学校に行ったことがない人たちなのに旧約聖書に基づいて、引用して、メシアによる救いについて語ったから驚いたのです。
この大胆さはどこから来たのでしょうか?
(1)それは聖霊です。使徒の働き1:8にありますように、聖霊が私たちに臨むときに私たちは力を受けます。その 力によって私たちは主イエス・キリストの事を証しすることができる力を聖霊から受けます。
ですから私たちが中学までしか教育を受けていなくても、或いは全然教育を受けていない者であっても、聖霊が私たちに働くと、私たちは大胆にイエス・キリストの事を証し出来ます。以前にお話ししたことがありますが、タイ国の中央部の田舎町にいたベンホームさんはハンセン氏病患者だったので教育の機会が与えられず文盲の婦人でした。彼女はクリスチャンになってから、聖書を読みたいがためにタイ字を習い、聖書の教えを家族に、村の人々に証ししました。その結果、彼女の家族全員がクリスチャンになりました。クリスチャンのある人は誤解していて、「私は頭が悪いからイエス様の事を証し出来ない、お話しできない」と思っている人がいます。これは間違いです。聖霊なる神様は教育のない人や、子どもたちを用いて福音を伝え、救われる人を起こして来られました。福音を証しする大胆さは、人間的な力ではなく、聖霊の、神様の力によるのです。
(2)この大胆さは、ペテロとヨハネがイエス様と一緒に生活を共にしていたところから来ています。13節に「二人がイエスと共にいたということも分かってきた。」とあります。つまり、この二人はイエス様と共にいて、イエス様と深く交わり、会話し、イエス様の働きを見て、知っていたのです。私たちも同じです。私たちが新約聖書をよく読んで、イエス様の教え、お働き等を知り、日々の生活の中でイエス様を思い、慕ってすごしていると、大胆さが与えられます。礼拝に来た時だけイエス様の事を思っているだけで、教会から外に出たら、イエス様の事はすっかり忘れている様な人にはこの「大胆さ」は与えられません。
(3)また、この大胆さは、否定することのできない事実から出て来ます。「美しの門」で物乞いしていた人の足が癒されたことをエルサレム中の人が聞いて知っていました。この時に、その人はサドカイ人たちの前に立っているのです。昨日は立って歩いていたが、今日は歩けなくなって座って、再び物乞いをしているのでしたら、大胆にイエス様の事を話せません。現在でもよく「奇跡」を売り物にして宣伝する宗教があります。そういう集会に行って見ると、口のきけなかった人が喋れるようになった、とか、目が見えるようになった、とか、この場合と同じように、歩けるようになった、とか叫び、その会場のテンションを上げます。皆熱狂的になって何が何だか分からなくなるような雰囲気を作ります。そしてその宗教を信じるように強く勧め、その宗教の会員になるようにします。また、お金を要求して来ます。大体このような宗教はお金を出すように強制し、しつこく言います。気を付けなければなりません。キリスト教の名前を言っているグループや教会でもこのような間違ったグループがありますから気を付けなければなりません。
私たちも同じです。クリスチャンになったと言っている人々が社会的に悪い、証しにならないこと、嘘をついたり、人を騙したり、悪い噂を流したりしていたら、そういう人たちは、大胆に福音を証し出来ません。しかし、イエス・キリストの力によって罪赦され、聖霊によって新しく生まれて新しいいのちに生きている人ならば、聖霊の力によって大胆に主イエス・キリストを証しすることができるようになります。私の高校時代からの友人で今、明大前の朝顔教会にいる右近さんと言う方がおられます。彼は高校生の初めまではチンピラでしたけれども、クリスチャンになったら、人間が変わってしまいました。そして今は元祖便利屋として多くの人を助けています。こういう事実があるから彼や彼の友人たちは「大胆に」イエス様が私たちの人生を変えてくださる、と言えるのです。
サドカイ人たちや祭司たちは、ペテロとヨハネを逮捕してみましたが、彼らの大胆な主張に答えられないで困ってしまいました。振りあげた刀を下ろせなくなってしまいました。そこで、ペテロとヨハネと癒された人を議場から外に出して、「どうしよう」と相談し、対策を練りました。しかし、良い案がありません。彼らの行った事を否定しても、エルサレム中の人々はそれを事実だと知っていますから、収まりません。だから、今後イエスの名前で人々に語ってはいけない、と福音を語ることを禁止しよう、と言うことになりました。そこでペテロとヨハネを呼んで「これからはイエスの名によって語ることも教えることもいっさいしてはならない」と命じました。(18)すると二人は19節、20節に書かれていますように、
「神に聞き従うよりも、人間に聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちの見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」と答えました。
これがクリスチャンの証しの原則と言うか、取るべき態度です。
(1)私たちが神の教えに従うべきか、それとも人間の教えに従うべきか、と言う二者選択を迫られた時には、私たちクリスチャンは、神に聞き従うほうを選びます。この後、ローマ皇帝の下で皇帝ネロを神として拝むか、それとも真の唯一の神様だけを拝むのか、と言う選択を迫られたローマのクリスチャンたちは、「神に聞き従う」ことを選んで殉教の死を遂げていきました。日本でも先日ハリス先生がお話しくださった長崎の二十六聖人は長崎の地でイエス・キリストを信じる信仰の故に十字架に架けられて死にました。明治の時代のクリスチャン達も神に従う道を選び、迫害されました。そして現在も違った形で私たちは「神に聞き従う」か「人間に聞き従う」 か、を問われることがあります。
(2)神の御前に正しいかどうか、と言う判断基準を持つことが大切です。なぜなら、人間の判断基準は、時代や状況によって変化するからです。昔、明治時代には良かったことが今は間違っていることになったりします。例えば、明治時代には女の人は男の人のうしろを歩かなければならなかったのですが、今は男の人と女の人が一緒に並んで歩いても問題がありません。このように、人間の前に正しいことは、時代やその国の価値観によって変化します。しかし、まことの神様の判断基準は絶対に変わることがありません。まことの神様の判断基準が記されている聖書は変わることがありません。私たちはですから、いつも変わることのない神様の言葉、神様の基準に従って判断するのです。もし、どうしたらよいか分からない時には聖書が何と教えているか、を調べて、その正しい教えに従って行くのです。牧野先生に聞いて、牧野先生がこう言ったから、と私の考えや判断基準で判断しまうと間違えることがあります。
(3)クリスチャンの証しは20節にありますように、「自分たちが見たことや聞いた事を」証しするのです。つまり、私たち一人一人がクリスチャンになった時に経験したことを話すのです。他の人の借り物の経験を話すのではないのです。自分では経験していなけれども、私はキリスト教が何となく恰好良いし、好きだから、と言ってクリスチャンになることを他の人に勧めても力がありません。私たちが証しし、福音を伝える時に大切なことは、自分がどのような経緯で、どのような考えで、状況で、イエス・キリストを自分の罪からの救い主として信じたのか、信じてクリスチャンとして生きて来た時にどんな経験をしたのか、教会に行くようになって、自分が見たこと、聞いた事、そして自分が経験したことを他の人々に証しし、伝えることです。クリスチャンになって経験した新しい喜びについて、お祈りをしたらその祈りに神様が答えてくださった事について、教会に行ってクリスチャンたちと交わることを通して教えられ、助けられ、互いに愛し合う経験をしたことを、神様が新しく与えてくださった心の平安、安らぎ、安心について他の人に話し、お分かちするのです。クリスチャンの証しはこのように「借り物」ではなく、自分の経験した「本物」を証しするのです。
ペテロとヨハネはサドカイ人たちに脅されました。しかし、そのような脅しには負けない神様からの平安と喜びがありました。二人は釈放されると直ぐに他のクリスチャンたちの所に行ったのです。
私たちもペテロとヨハネのように、神に聞き従い、日々の生活の中でこれは神様に喜ばれることかどうかを聖書を調べて知り、聖書を判断基準にして判断し、行動して行きましょう。また、聖霊によって自分が経験した信仰体験を他のクリスチャン達に、また、クリスチャンではない人たちに証ししていきましょう。お祈りします。